(東京都中央区銀座)
昭和2年(1927)に築造された、SRC造5階地下1階塔屋付、延床面積1,114㎡の社屋である。昭和33年(1958)日本酸素が西新橋に移転し、その後平和相互銀行、大丸興業東京支店として利用され、平成元年(1989)から松屋事務所として使用された。(2023年解体)
(川崎市高津区作延)
現在多摩川に注いでいる平瀬川は、昭和20年(1945)まで溝口を経由して二ヶ領用水に合流していた。現在とは違い流路が小さく、大雨の際に氾濫を繰り返していた。江戸時代前期、地頭戸田清信が流出した橋の架け替えの際に水害で亡くなった住民の供養のため石橋供養塔を造立したものという。
(川崎市高津区上作延)
右側は馬頭観音で、村内他力 願主 藤蔵と記銘。左側は青面金剛二鶏三猿邪鬼庚申塔で、ショケラ(三尸虫:さんしのむし)を持ち、庚申講中十人 文政七甲申年(1824)八月吉日と記銘あり。
(川崎市高津区向ケ丘)
ある修行僧が諸国行脚の際、祠のあるこの地で百日咳に苦しみ亡くなったという。また一説には、この地で穴を掘りその中で鉦を叩き、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したともいう。その跡に松が植えられ聖松と呼ばれたが、明治20年頃落雷に遭い現在の姿になった。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編み聖松に縛り願を掛け、病が治ると右縄を編み幹に縛り直して願解きをしたいという。平成12年(2000)祠が社殿に改築されている。
(神奈川県鎌倉市浄明寺 2017年1月10日)
上杉朝宗は室町幕府第二代鎌倉公方の足利氏満、満兼の執事として仕え、犬懸上杉家の祖となった。子の氏憲も執事となり、出家して禅秀と名乗っている。その後、足利持氏が上杉憲基を執事としたことから、朝宗は持氏と対立するようになり、応永二十三年(1416)反乱を起こした。当初は持氏に不満を抱く足利義嗣、満兼も禅秀に味方したが、幕府は持氏支援を多くの武将たちに命じたため、禅秀は追い詰められ、雪ノ下の鶴岡八幡宮別当坊で自害したという。
(東京都東村山市秋津町)
近代以前から府中街道、所沢街道、志木街道の交通要衝であったが、大正6年(1917)武蔵野鉄道(1922-西武鉄道)秋津駅が開業し、昭和48年(1973)武蔵野線新秋津駅が開業して鉄道の要衝ともなった。地名は地区を流れる柳瀬川の湿地を意味する渥土(あくつ)からとされるが、弘仁九年(818)文室秋津(ふんやのあきつ)が武蔵介(武蔵国司)として赴任したことによるともいう。
(神奈川県鎌倉市二階堂 2017年1月10日)
平安時代後期、三浦義宗は杉本寺に城を築き、杉本義宗と名乗った。延元二年/建武四年(1337)北朝を立てた足利尊氏を討伐するため鎌倉入りした南朝方の北畠顕家勢と北朝方の足利義詮(よしあきら)、杉本城主斯波家長はこの城で戦ったが落城し、家長は討死した。