(Cote d'Azur フランス共和国プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルプ=マリティーム県ニース市)
モナコからFSCNで西に向かう。コート・ダジュールは、フランス南部の地中海沿岸を差す地域で、その季候風土からリゾート地として知られている。その中心都市がニース市であり、日本語では紺碧海岸と訳される。
ニース・ヴィル駅
信用乗車方式によるチケット打刻機
(よいち 北海道余市郡余市町)
ようやくこの地を訪れることができた。余市十字街でバスを降り、先ずニッカウヰスキー余市蒸溜所に立ち寄った。広島竹原出身の竹鶴政孝が摂津酒造(後の宝酒造)勤務時、国産ウイスキー製造に向けてスコットランドへ留学。その後寿屋(後のサントリー)からウイスキーを製造する工場長にスカウトされた。昭和9年(1934)寿屋から独立して大日本果汁(後のニッカウヰスキー)を設立し、この地においてスコッチウイスキーの製造を開始した。 また、余市は宇宙飛行士毛利衛氏の出身地でもあり、余市蒸溜所の北側には道の駅スペース アップル・余市があって、その一角には余市宇宙記念館がある。
チャンチャン焼き
膨らむ前のプラネタリウム
錯覚の部屋
余市川
(こぬかやま 岐阜県大垣市青墓町小金 市指定史跡 1990年5月22日踏査)
耕地の中に墓地として残る4世紀後半~5世紀初頭に築かれた前方後方墳である。規模は全長100m,高さ6mであり、外部施設として周濠、葺石、埴輪が認められる。粉糠山の名の由来は、東山道青墓宿(或いは中山道赤坂宿)の遊女が捨てた粉糠(白粉:おしろい)が積もったものという伝説からとされる。
(いもうしつげん 愛知県豊橋市岩崎町長尾 石巻山多米県立自然公園 県指定天然記念物 1999年4月25日)
弓張山系神石山(325m)の西側、地蔵川源流付近に広がる、面積3.2haの湧水湿地である。東海の尾瀬と呼ばれるこの地は、250種類の湿地植物がみられ、訪れたこのときはハルリンドウやツボスミレ等の草花がみられた。
(Monaco モナコ公国)
イタリア国境ヴェンティミリアからフランス国鉄SNCF Intercite・TER(地域圏急行輸送列車)でモナコ入りをする。トンネルの中にあるモンテカルロ駅は、まるでメトロの駅のようであるが、トンネル曲面のライトがモナコのセンスを表しているようであった。駅を出ると斜面に建物が建つモナコは、平らな場所が少なく坂ばかりである。訪れたときは天候が芳しくなく、コート・ダジュールに面する爽快な景色は望めなかったが、特別な街としての景色力は伝わってきた。世界で二番目に小さな国、モナコの面積は2.02km2(TDRとほぼ同じ)に人口3万6千人の国民が暮らす。その小さな国内をイタリア・ジェノヴァからガリア・ナルボネンシス(南仏ラングドック・プロヴァンス)に至るかつてのユリア・アウグスタ街道が通っており、東側のフランス・マントンから西側のフランス・ニース方面に抜ける車で通勤時には渋滞する。モナコの歴史は1228年、ジェノヴァ共和国によって開発されたことに始まる。その後、グリマルディ家(モナコ公室祖)によって統治され、1612年、フランス王ルイ13世臣下になることでスペインからの支配を逃れた。然し、フランス革命によってモナコは軍に占領されフランスに併合された。1813年、モナコ領内であったマントンとロクブリュヌが独立しフランス領となり、モナコは主権を回復したが、95%の領土を失い現在に至っている。
モナコ・モンテカルロ駅
グレース王妃劇場
モナコGPが行われる道路
カジノ
リトルアフリカ庭園
ムーラン通り
ヴァロン・デ・ガウマテスの壁に建つサント・デボーテ教会
モナコに訪れる半年前、私は東京のパレスホテルで行われたホテルメンバーシップガライベントのディナーで、今回宿泊したモナコのホテルの女性スタッフと知り合い、ヴェネツィアから始まった今回の旅の訪問地を決めた経緯がある。
アメニティはエルメス
戸棚の中は冷蔵庫
夕張から北の都に戻る。今回の宿は初めて札幌を訪れたときと同じ、「豊水すすきの駅」入口の見える場所であるが、名前が変わっていた。また、訪れたこの日は第34回さっぽろホワイトイルミネーション並びにテレビ塔前で行われるミュンヘン・クリスマス市の初日であり、多くの人出があった。
テレビ塔と閉館した丸井今井大通り館
(イタリア共和国リグーリア州インペリア県ヴェンティミリア市)
フランス・マントン市と接する人口2万5千の小さな街である。街は国境の向こうでコート・ダジュールと名を変える地中海の沿岸、リグーリア海に面しており、リヴィエラ(イタリア語で岸)の街である。紀元前に敷設された、ジェノヴァからガリア・ナルボネンシス(南仏ラングドック・プロヴァンス)に至るユリア・アウグスタ街道の宿場として栄えた。