(かいどり 東京都多摩市貝取)
永山の西側に位置する細長い地区である。地名の由来は伝わっていないが、鎌倉街道沿いであるため、「街道通り」が変化したもの、あるいはアイヌ語のカイェ・ウトゥル(折れるの意)から変化したとも想像できる。
(八幡台地遺跡群 愛知県豊川市白鳥町 2002年6月23日)
三河国府跡と推定されている白鳥台地は、旧石器時代から全ての時代において人々の営みがあり、国府の存在した奈良時代末から平安時代中期にかけての遺構も多く検出されている。
(東京都多摩市永山)
多摩ニュータウンの一角、永山を訪れる。かつては上長山、下長山という地名表記であったといい、乞田川に沿った舌状台地が地名の由来とされる。住宅地として開発されながらも緑は豊富で、閑静な住宅街となっているが、古東海道や鎌倉街道によって古くから人の往来があった地区である。
(愛知県豊川市麻生田町当貝津 2005年5月16日)
今回は大橋地区土地区画整理事業に伴い、市道拡幅の事前発掘調査が開始された。隣接する大橋遺跡と同じく縄文時代晩期後葉(三河地方編年五貫森式~)からの複合遺跡で、旧豊川沿いに形成された住居跡及び甕棺墓の遺跡である。
(府中街道 川崎市多摩区菅稲田堤)
南武線と京王相模原線が交差するこの地は、元々「菅:すげ」という地名であり、多摩川沿いの菅が密生している地を表している。明治23年(1890)合併により初めて「稲田」という地名が起こり、多摩川沿いの低地であるため洪水に見舞われていたが、明治43年(1910)に桜の植えられた堤防が造られた。このとき稲田堤と呼ばれるようになり、駅名に採用されている。
(愛知県田原市吉胡町矢崎 国指定史跡 2005年5月14日)
吉胡(よしご)貝塚は縄文時代中期から中世にかけての複合遺跡で、大正11年(1922)に発掘調査が開始されて以降、現在も続けられている。各時代の土器、陶器の他、石器、骨角器、貝殻、数百体の人骨が検出されている。27年前に訪れたとき、荒れ地であったこの斜面も、史跡公園として整備されつつあるようであった。
(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)
千葉常胤の次男相馬師常は、鎌倉幕府御家人の一人で、やぐらの程近くに屋敷があったという。父常胤と共に源頼朝の挙兵に参加し、奥州合戦にも参戦したが、建仁元年(1201)父の死後は出家し、法然の弟子となった。元久二年(1205)念仏を唱えながら正座に合掌という姿で没し、この場所に葬られた後、やぐらの前に相馬天王社(天和年間(1681-4)寿福寺横へ八坂大神として移転)が祀られたという。
(愛知県豊橋市老津町宮脇 2005年5月13日)
老津神社境内の参道に削られて横穴式石室が露出している古墳である。後期古墳であり、推定直径は14m,高さは2.8m,平成元年に発掘調査が行われ、朱塗りされた石棺からは金銅製双竜頭太刀が出土している。
(真言宗泉谷山浄光明寺 神奈川県鎌倉市扇ガ谷 国指定史跡)
泉ガ谷の窪地に建長三年(1251)北条時頼・長時によって創建されたという。室町時代には足利氏の菩提寺となり繁栄したが、次第に衰退し殆どの伽藍を失った。寛文八年(1668)に再興され、現在に至っている。
(愛知県豊橋市老津町西高縄 2005年5月13日)
前回訪れたときは家政高等専修学校(1980年開校)の建設のときであったが、今回はずっとここにあるかの如く落ち着きをみせていた。高縄城は文明七年(1475)碧海郡上野城主戸田宗光によって築城されたが、文明十三年(1481)田原城に移っている。