(春日大明神 三重県名張市平尾 旧県社)
藤堂屋敷から西に歩くと、道の真中に石鳥居が建っていた。これは宇流冨志禰(うるふしね)神社の一の鳥居である。この鳥居は二代目で、初代は貞享四年(1687)藤堂長守が寄進した木造鳥居であったが、宝永七年(1710)焼失している。そして安永七年(1778)石造で再建され、現在に至っている。市指定文化財となっている。
中心地の西方、名張川沿いの高台に宇流冨志禰神社は鎮座する。宇奈根命(ウナネノミコト)を祀り、社伝では天武天皇三年(674)創始という。また、平安時代の記録『延喜式神名帳』にも「宇奈根神従五位」と見える式内社である。天正十年(1582)伊賀の乱時に兵火に遭うが、その後は領主松倉氏、藤堂氏らによって繁栄した。
境内には天和三年(1683)の銘のある石鳥居と、天和二年(1682)銘の手水鉢(共に市文化財)、正徳五年(1715)銘の石灯篭がある。
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「子供から大人へ…40文字の提案」のなかに、
心ない子どもを育てているのは誰?
自然を壊しているのは誰?
みんな大人や社会でしょ。
という中学生の声があったという。
そこで私は、この件を他の場で「大人がきちんとしつけなかったり、言っている大人がルール守らなかったり…何よりも子どもとの対話が少ないのが一番悪いと思う。
そりゃー反抗したくもなりますわね。私もそう思う節がありましたから」と言った。
そうすると、「人間には個性があるんだから、しつけで押さえつけたりせず、のびのびと自立させるのがいいと思う」という親御さんがいた。
また、家庭教育学を学ぶ、子を持つ親御さんも以前、私にこう言ったことがあった。
「親が子どもに長い時間接していたら、子どももイヤになるだろうし、親もイライラする。社会が育ててくれるから、家では放っておくほうがいい。それよりも両親は外に働きに出て、稼いだほうが活気が出てプラスだと思う」
という発言だった。
私は未成年の子どもたちに対し、このような放任主義的な考えは無責任に感じてしかたがない。私の周囲にも、放任主義がゆえに子どもが違う道に逸れて警察沙汰になったりするのを目にすることがある。子ども自身に「自分の考えが正しいんだ」という考えを起こさせてしまうほど、怖いものはない。親や大人たちが、子どもが成人するまで社会の一員として生きていくにはどうしたらいいかを教えてやるのが役目の一つではないのだろうか。
個性と非常識は違うと思う。
悪いことをしても子どものやることだからしょうがない。
犬が吠えるのは動物だから当然だ。
という大人たち。
冷たく、非社会的な人間が増えるのもここに原因があると思うのだが…。
(奈良県高市郡明日香村平田 特別史跡 国宝)
明日香村へは、約13年振りに訪れる。以前は、いわゆる歴史好きが訪れる地であったように思うが、最近はお出かけスポットの一つとなっており、そこに存在するものが何であるかはどうでもよいようで、例えば石舞台古墳がお墓であることを最後まで知ることなく帰っていくといった有り様である。
午前中、大阪造幣局の桜の通り抜けを訪れていたため、この地へは昼からとなった。村内をスポット的に訪れようと思ったが、史跡の各区間の距離が長いため、レンタサイクルを利用することにした。そして先ず、高松塚古墳へ向かった。
石室解体修理のため覆いが設けられた高松塚は、以前の光景と大きく違っていた。壁画の劣化対策によって行われた措置であるが、悠久の年月を持ち堪えてきたものが、ここにきていろいろと問題が起きているのは、どういうことであろうか。
高松塚古墳は7世紀末から8世紀初頭の古墳終末期に築かれた古墳であり、直径23m,高さ5mの円墳である。昭和47年(1972)の発掘調査によって極彩色の壁画が検出され、一躍話題となった。
高松塚壁画館を見学し、中尾山古墳へと向かった。
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(名張城 名張陣屋 藤堂屋敷 三重県名張市丸之内 県指定史跡)
私の父の故郷今治に縁のある名張は、今治城から移った藤堂高吉が住したところである。現在は三重県ながら、人の流れ、文化、都市圏は完全に関西である。名張は名張川沿いに形成されたまちであり、平地が長く続かない。その最高所に藤堂家の屋敷があった。
この場所には元々、筒井定次臣松倉勝重の城があり、慶長十三年(1608)藤堂高虎が伊勢、伊賀の領主となり安濃津に移り住むと、名張には梅原武政を城代として置いた。然し、元和三年(1617)武政を罷免し、伊賀上野城の藤堂高清が支配することになった。そして、寛永十二年(1635)高吉が伊勢国二万石を領し、今治から名張に移った。二万石の領主であったが、高虎の藩内領主という扱いであったため、大名ではなかった。以後、名張藤堂家として続き明治維新となった。
当時の遺構は残されていないが、宝永七年(1710)の大火によって建物を焼失して以後、藤堂長源(ながもと)の代に再建された屋敷の一部が残されている。また、背後の寿栄神社には、旧藤堂家邸の太鼓門が移築され残っている。そして、名張川沿いの徳蓮院には、高吉以降の墓碑が並んでいる。
(名張藤堂家菩提寺徳蓮院)
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御巡幸を前に、飛騨国分寺を訪れた。先回は平成15年に訪れているが、外観のみであったので、今回は内陣も拝観することにした。
(国指定天然記念物 乳イチョウ 樹齢1200年)
(県重文 阿弥陀如来(伝源信作)・如意輪観音菩薩(鎌倉))
(本尊薬師如来 重文)
(重文 聖観音菩薩 平安前期)
(弁財天 円空作)
(飛騨国分寺鐙瓦)
(重文 本堂 室町時代)
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かつて水運に利用された天王川の流れも今はなくなり、丸池として天王川公園に名残を留めている。そして、この津島は「藤浪の里」と呼ばれる藤の名所であった。天王川の水流の跡には、長さ275m,1500坪にわたる藤棚が連なっている。そこにはアケボノフジ、ウスベニフジ、キュウシャクフジ、コクリュウフジ、シロカピタンフジ、シロノダフジ、ノダフジ、ノダナガフジ、ムラサキカピタンフジ、ムラサキフジ、ヤエコクリュウフジ、ロクシャクフジの12種類114本の藤が咲き誇っていた。
(水面を埋め尽くす藤の花びら)
また、このときは各町内の秋まつりの山車が繰り出し、あわせて水谷ミミトークショーが行われていた。
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熊野の長藤からこの場所に差し掛かる。旧豊田町時代に「熊野の里・文化が薫るまちづくり事業」の一環として設けられた1ha.の公園と、パルファン・フォーレ(フランス語で「香り・森」を意味する言葉)を愛称とする博物館がある。公園内にはハーブやラベンダー、キンモクセイ等が植栽されており、博物館は様々な香りを実際に嗅ぐことのできる工夫がされている。訪れたときは、「マイセンの花~ヨーロッパ名窯の優美な香り~」の展示が催されていた。
吉水神社の西方、金峯山寺に辿り着く。白鳳時代に役小角(えんのおづぬ:役行者)が開基したといい、江戸時代までは「山下の蔵王堂」と呼ばれ、山上の蔵王堂こと大峯山寺と一つの存在であった。長らく神仏習合であったが、明治時代に入り、神仏判然令によって寺院と神社に切り離され、更に修験道廃止令によって大峯山寺と分離し、天台宗修験派金峯山寺となり、戦後になって金峯山修験本宗となって今に至っている。
山上側から境内に入ると、正面に国宝の蔵王堂が建つ。豊臣家の寄進によるもので、扉の金具に天正十九年(1592)の銘がある。内陣の旧安禅寺本尊蔵王権現像(鎌倉時代 重文)等を拝観し、背後の蔵王権現本地堂では「吉野南朝を偲ぶ特別展」が開かれており、村上義光公奮闘之図(文政九年和筆)、吉野曼荼羅(南北朝時代)、吉野全山古図(江戸時代)、木造宗信法印坐像(江戸時代)、木造釈迦如来坐像(平安前期 県文)、仁王像内納入品(南北朝時代 県文)、金峯山秘密伝(室町時代)、太平記(寛永八年)等が展示されていた。
蔵王堂前には「大塔宮御陣地」があり、元弘三年(1333)大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)が吉野城落城前に最後の酒宴を催した場所という。その右側には天満宮、神楽殿、稲荷社があり、そこから一段低くなった場所は、後醍醐天皇の行宮となった実城寺(金輪王寺)が存在した場所であり、跡地に重文の釈迦如来像が安置されている南朝妙法殿が建っている。そして、その前には「吉野朝宮址」の石碑が建つ。
北側にまわると、康正二年(1456)銘の風鐸が吊り下がっている国宝仁王門がある。そこから暫く下ると、室町時代の銅鳥居(かねのとりい)が建ち、重文となっている。更に下ると、黒門(総門)があるが、これは昭和60年(1985)に再建されたものである。
(銅門)
(黒門)
天方城を後にし、森の町並みに戻る。秋葉街道(塩の道)によって栄えたこの町は、周智郡の中心地としても栄え、今もその面影を随所に残している。
太田川沿いの三島山には寛文十二年(1671)の本殿の残る三島神社があり、神社の森が町の由来になったといわれている。その三島神社祭礼の際、神輿渡御が行われる南西500mに鎮座する金守神社(金比羅さん)は、天正七年(1579)創建といい、境内には楠に取り巻く藤がある。
(長さ3.1mの横笛)
金守神社の東方には、県指定天然記念物「次郎柿原木」があり、弘化年間(1844-47)この地に住む松本次郎という人物が、太田川に流れていた柿の苗木を拾い、植えたのが始まりという。
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(ゆやのながふじ 静岡県磐田市池田 国・県指定天然記念物)
池田の町並みの一角には、時宗摂取山行興寺があり、境内には樹齢800年(国指定分1株、県指定分5株)という長藤が枝を伸ばしている。この長藤を植えたのは平安時代末期の歌人でもあった熊野(ゆや)御前という。熊野御前は池田荘の荘官であった藤原重徳が、紀州熊野権現に子授けの願をかけ誕生した娘である。熊野御前は、遠江国司として着任した平宗盛の侍妾として京に上がったが、その後熊野御前の母が病気となり、宗盛を説得して郷里の池田に帰った。やがて母も宗盛も亡くなり、この地に念仏道場を建て十一面観音を信仰した。その熊野御前も三十三歳で亡くなり、正応三年(1290)念仏道場を寺として開山して今に至っている。手植えの長藤の下には、熊野御前とその母の墓が並んでいる。
行興寺の背後は、貞永年間に創建した真言宗遍照山西法寺が存在したが、現在は廃寺となっている。旧境内地が「豊田熊野記念公園」となっており、凡そ300坪の藤棚が設けられている。その一角には熊野伝統芸能館が併設され、熊野御前の物語を伝える謡曲「熊野」等の能が行われる。
この後は、香りの公園へと向かった。