(旧所在地:岩手県紫波郡紫波町舟久保 国指定重要文化財 2013年7月3日)
宝暦年間(1751-64)に築造と推定される、建築面積257㎡の曲り家と呼ばれる南部地域特有の住宅である。昭和47年(1972)日本民家園に移築復原された。
(川崎市多摩区枡形 2013年7月3日)
昭和46年(1971)岡本太郎が「大地に深く根ざした巨木のたくましさ」、「ゆたかでふくよかな母のやさしさ」、「天空に向かって燃えさかる永遠の生命」をイメージして原形が製作され、平成13年(2000)岡本太郎美術館屋外作品として造立された、S造GRCクラッシュパネル張、クラッシュタイル仕上、FRPブロンズ彫刻の高さ30mのモニュメントである。この地から6km離れた多摩川畔、二子神社境内に造立されたモニュメント、岡本かの子文学碑「誇り」に向くよう造立されている。
(京都市左京区八瀬野瀬町)
大正14年(1925)京都電燈叡山鋼索線西塔橋駅として開業。昭和17年(1942)京福電気鉄道となり、昭和40年(1965)八瀬遊園開業によりケーブル八瀬遊園駅、同園閉園によりケーブル八瀬駅と改称された。
(山口県萩市堀内 2013年6月20日)
元治元年(1864)萩藩士田中信祐の三男として生まれる。第26代内閣総理大臣、陸軍大将を務め、昭和4年(1929)に没し、昭和6年(1931)銅像が建立された。(金属供出により昭和38年再建)
(山口県萩市南古萩町 2013年6月20日)
天保十年(1839)萩藩士高杉小忠太の長男として生まれる。安政四年(1857)松下村塾の塾生となり、翌年に江戸へ遊学、その後は尊皇攘夷志士として奇兵隊を創設し、倒幕運動に奔走したが、慶応三年(1867)二十七歳で死去した。
(京都市左京区八瀬近衛町)
昭和63年(1988)に築造された、RC造4階地下1階、延床面積422㎡の商業兼住居ビルである。バブル期に築造されたが、それ以前に流行したメタポリズム様式の入った意匠である。
(山口県萩市呉服町 国指定史跡 2013年6月20日)
小五郎孝允(たかよし)は天保四年(1833)萩藩医和田昌景の長男としてこの地で生まれ、七歳のとき藩士桂孝古の養子となったが、翌年桂家の養母が亡くなったため生家に戻っている。嘉永二年(1849)吉田松陰の門弟となり、嘉永五年(1852)江戸に留学した。その後は練兵館塾頭となり、尊皇攘夷派の指導者、薩長同盟の締結等を行った。慶応元年(1865)藩主より木戸姓を賜り、明治10年(1877)に四十五歳で没している。
(京都市左京区八瀬野瀬町)
平治元年(1159)平治の乱で平清盛に敗れた源義朝が東国への逃亡の際、延暦寺の僧兵に襲われ高野川に転落した。馬と共に転落した義朝は無事であり、それは観音菩薩の加護によるものだと感じた義朝は、岩に鏃で観音像を刻んだという。岩に刻まれた観音像はその後も信仰されたが、立地が険しかったことから、昭和8年(1933)現在地に真言宗の寺院が建立された。
(UFO STATION HAGI 山口県萩市東田町東区 2013年6月20日)
萩、田町商店街アーケード入口に建つ、RC造6階地下1階塔屋付、延床面積970㎡の商業ビルである。昭和54年(1979)竣工時、周辺との比較から、高さ、色、名前において異彩を放ち、賛否両論が巻き起こったとされるこのビルも、その後メンテナンスされることなく老朽化し、テナントもなくなったことから、間もなく解体されることになっている。