(長崎市松が枝町 国指定重要文化財)
旧香港上海銀行長崎支店の隣には、寄棟平屋造りの建物がある。明治31年(1898)に税関派出所として建造されたもので、煉瓦造、延床面積221㎡である。平成10年から半解体による修繕工事が行われ、平成14年に、長崎市べっ甲工芸館として活用されている。
旧香港上海銀行長崎支店の隣には、寄棟平屋造りの建物がある。明治31年(1898)に税関派出所として建造されたもので、煉瓦造、延床面積221㎡である。平成10年から半解体による修繕工事が行われ、平成14年に、長崎市べっ甲工芸館として活用されている。
(東海旅客鉄道飯田線 愛知県豊川市牛久保町)
明治30年(1897)豊川鉄道牛久保駅として開業した。昭和18年(1943)豊川海軍工廠輸送路線として国有化され、日本国有鉄道飯田線となった。その際、改築されたのが現駅舎である。昭和59年(1984)国鉄末期の合理化策により、構内踏切から管理の要らない跨線橋に転換され、平成4年には夜間無人駅化となった。平成7年には売店が廃止され、平成20年には、2番ホームの屋根が改築されている。
(関連記事:豊川駅舎)
明治30年(1897)豊川鉄道牛久保駅として開業した。昭和18年(1943)豊川海軍工廠輸送路線として国有化され、日本国有鉄道飯田線となった。その際、改築されたのが現駅舎である。昭和59年(1984)国鉄末期の合理化策により、構内踏切から管理の要らない跨線橋に転換され、平成4年には夜間無人駅化となった。平成7年には売店が廃止され、平成20年には、2番ホームの屋根が改築されている。
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(Banzai Airrated Waterfactory 長崎市小曽根町)
明治35年(1902)ロバート・ネール・ウォーカーによって建てられた、煉瓦造二階建のラムネ工場である。現在は宝製綱というロープ製造会社の工場として利用されている。
(南山手乙九号館とラムネ工場)
(長崎市南山手町 国選定重要伝統的建造物群保存地区)
明治中期にロシア人実業家G・ナパルコフによって建造された、二階建、面積206㎡の洋館である。平成4年から修理保存が開始され、平成14年からは、須加五々道美術館として利用されている。
(南山手乙九号館とラムネ工場)
明治中期にロシア人実業家G・ナパルコフによって建造された、二階建、面積206㎡の洋館である。平成4年から修理保存が開始され、平成14年からは、須加五々道美術館として利用されている。
(南山手乙九号館とラムネ工場)
(東海道線 城北線 愛知県清須市西枇杷島町)
明治39年(1906)に開業した駅である。近年行われている整備事業によって、駅東地区の整備及び木造の駅舎が改築された。以前私は、東海道線が豪雨で運休した際に乗り合わせ、この枇杷島駅で降り、代替えで名鉄西枇杷島駅まで向かったことがあった。その途中に、やや冠水した高さの低いレンガトンネルがあり、足元を濡らしながら、腰を屈めながらくぐったことがあった。そのトンネルも整備により姿を消した。また、平成20年末に橋上駅舎が完成したため、翌年に旧駅舎は取り壊され、地下道も埋め立てられた。
(埋め立てられた地下道)(解体された旧駅舎)
(関連記事:枇杷島駅’09春)
明治39年(1906)に開業した駅である。近年行われている整備事業によって、駅東地区の整備及び木造の駅舎が改築された。以前私は、東海道線が豪雨で運休した際に乗り合わせ、この枇杷島駅で降り、代替えで名鉄西枇杷島駅まで向かったことがあった。その途中に、やや冠水した高さの低いレンガトンネルがあり、足元を濡らしながら、腰を屈めながらくぐったことがあった。そのトンネルも整備により姿を消した。また、平成20年末に橋上駅舎が完成したため、翌年に旧駅舎は取り壊され、地下道も埋め立てられた。
(埋め立てられた地下道)(解体された旧駅舎)
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(長崎市南山手町)
明治初期、この地にロシア領事館が設置された。明治37年(1904)に起きた日露戦争により、一時国交断絶となり閉鎖されたが、明治39年(1906)に再開されている。領事館建物は今は残らないが、周辺の石垣や石段が往時の面影を残している。
明治初期、この地にロシア領事館が設置された。明治37年(1904)に起きた日露戦争により、一時国交断絶となり閉鎖されたが、明治39年(1906)に再開されている。領事館建物は今は残らないが、周辺の石垣や石段が往時の面影を残している。
(愛知県豊田市)
天明二年(1782)の挙母城(桜城)移転によって、新たに城下町が築かれた場所である。二層の大手門のあったこの付近には、往時の面影が随所に残り、また、天明七年(1787)には崇化館という藩校も設けられた。
天明二年(1782)の挙母城(桜城)移転によって、新たに城下町が築かれた場所である。二層の大手門のあったこの付近には、往時の面影が随所に残り、また、天明七年(1787)には崇化館という藩校も設けられた。