(北海道函館市元町)
南下するロシアに対抗するため、江戸幕府が蝦夷地を直轄する警備として寛政十一年(1799)に設置し、盛岡藩(南部藩)に管理させたのが南部陣屋である。文政四年(1821)に一旦幕府直轄が解除されたが、安政元年(1854)再び直轄となった。明治維新の戊辰戦争の際、南部藩の役人たちは自ら陣屋を焼いて盛岡へ引き揚げたという。
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(京都府向日市鶏冠井町 国指定史跡)
延暦三年(784)それまでの平城京に代わって、水運に恵まれた現在の向日市を中心に、京都市西京区、長岡京市にかけて築造された都である。延暦十三年(794)その水運が仇となり、洪水によって都が壊滅、平安京に移るきっかけとなった。(築地跡)
(長岡宮跡を貫く阪急線)
(大極殿跡:朝廷正殿)
(再現された宝幢:幟立て)
(大極殿閤門跡)
(朝堂院跡:正庁)
(内裏内郭築地回廊跡)
(横浜市中区伊勢佐木町)
訪れたときは、この地に宿をとった。西洋、近代的というイメージの横浜とは違い、身近な光景が広がっている。この辺りは元々現在の東京湾の入江であり、江戸の材木商吉田良信によって埋め立てられた吉田新田の一部である。明治7年(1874)伊勢佐木町として町が成立し、以後商業が発展していった。
(京都市伏見区深草藪之内町 旧官幣大社 名神大社)
畿内で最も初詣客があるとされる伏見稲荷であるが、境内はさほど大きな社殿はない。千本鳥居を潜ると稲荷塚があり、起源である稲荷山へと続く。
和銅四年(711)伊奈利山の三ヶ峰に宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られたのが始まりとされる。中世には神仏習合により神宮寺である愛染寺が建立された。然し、明治時代となり神仏判然令によって寺は廃され、稲荷神社が正式名称となった。昭和21年(1946)神社本庁から独立し、伏見稲荷大社となった。
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御津山北斜面に建つ大恩寺は、飛鳥時代に百済の僧恵灌によって北側の新宮山に開創したという。その後衰退し、室町時代に下総国の浄土宗弘経寺の僧了暁によって大運寺として再興された。了暁の弟子勢誉は、徳川氏の菩提寺である岡崎の大樹寺を開創したことから、大運寺は松平氏の保護を受け、松平親忠によって現在地の御津山へ移された。更に松平広忠によって大恩寺と改められたという。天文二十二年(1553)再興された際に建立された念仏堂(トップ写真:国指定重要文化財)は平成6年に焼失したが、寛文十二年(1672)大垣藩二代藩主戸田氏信によって建立された山門は現存している。
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(大養徳恭仁大宮 やまとのくにのおおみや 京都府木津川市加茂町瓶原 国指定史跡)
天平十二年(740)聖武天皇の詔によって平城京からこの地に遷都することになり、木津川に大きな橋が架けられ、平城京で使われていた材料が運ばれた。然し、築造途中の天平十五年(743)工事は中止され、近江紫香楽宮築造に移行したが、翌年には難波京に遷都、更にその翌年には平城京に戻されている。 天平十八年(748)跡地となった恭仁宮を再利用する形で山城国分寺として改修された。然し、元慶二年(882)に伽藍を焼失、再建されるも衰退し、宇治平等院末となり、その後廃寺となった。(七重塔跡)
(大極殿(金堂)跡)
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