大町へは約2年振り。
先回は、山岳ルートへの通過や、仁科中綱・青木湖へ向かったが、今回は暫し市内を歩いてみた。そして、北アルプスや朝の大町が望める、鷹狩山腹、大町公園に向かった。
夜明け直後の標高790mは寒いものの、清閑な山脈に向かい合うと体内を調整される思いがした。
静けさの街を一旦離れ、山岳ルートの麓、大町温泉郷へ立ち寄った。
時間が早いためか、ここもひっそりとした涼しげな雰囲気であったが、雪渓を眺めながらの入浴は、体感温度を微妙に上下され、なかなか心地良いものであったと記しておこう。
付近には、七千年前の列石遺構があった。
山懐に抱かれたこの辺りが、いにしえのまつりの場であったことがうかがえる。
(関連記事:滑られないすべり台 木曽森林鉄道車輌 安曇野2007秋 千国街道仁科)
島のほぼ中央に位置する弾薬庫跡。
安全性を考慮し、くぼ地をつくりそこに築造している。
保管物の特性から、建物基部には通風孔を設けていて、煉瓦の積み方には、堅固さが必要なことから、英式工法を採用している。
現在は屋根部が無くなり、なお一層の遺跡感を醸し出している。
※レンガ積み方式
仏式…一列の中で、長手(細長い面)と小口(小さい面)を交互に並べ、次の段は入れ違いになるようにずらしていく積み方。
英式…長手の段と小口の段を段々に重ねていく積み方。
独式…長手をジグザグに積んでいく長手積み、小口をジグザグに積んでいく小口積みの方式。
(HP版: http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/geiyo-fortress-oshima-battery-ammunition-depot.htm )
(芸予要塞小島南部発電所)
前項、小島南部砲台 北東に位置する石炭火力発電所である。
経緯、結末等、南部砲台と同じ運命を辿っている。
この建物は、煉瓦造りで屋根は地元菊間瓦を用い、小島南西端ビワ首に所在した南部照明所の探照灯等に電力を供給した施設である。
(画像をクリックすると拡大します)
(HP版: http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/southern-part-of-geiyo-fortrrss-oshima-power-plant.htm )
(愛知県江南市前飛保町/知多郡美浜町豊丘 2004年4月18日の日記から)
この時期の名勝、江南「曼荼羅寺の藤」へと訪れた。
藤まつり期間直前であったため、まだ蕾の状態の藤が多かった。
午後は知多美浜の丘陵地に広がる「花ひろば」に向かい、キンセンカやポピーの中に埋もれてみた。
春を感じさせる一日であった。
(関連記事:布袋大仏)
(芸予要塞小島南部砲台 愛媛県今治市波止浜町小島)
昨年訪れた、瀬戸内海 小島 戦争遺跡第一弾である。
1898年9月28日、陸軍省告示第十一号によって芸予要塞の周辺区域が明示された。
翌年3月、島内最初にこの南部砲台が起工、翌年の1899年6月、南部砲台が竣工した。
同年7月、砲台に12cmカノン砲2門据え付け完了。
1904年1月5日、陸軍大臣より日露戦争開戦に伴う、芸予要塞射撃準備の内達。
1918年、芸予重砲兵大隊が廃止され、翌年5月、要塞整理要領の裁可。豊予要塞の新設と芸予要塞・広島湾要塞の廃止が予定された。
1924年12月20日、芸予要塞が廃止された。
廃止後の1926年8月15日から21日にかけて、陸海軍合同の戦闘機による爆撃演習の標的にされた。
演習後、砲台跡は越智郡波止浜町(現今治市)に払い下げられた。
(画像をクリックすると拡大します)
(HP版: http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/southern-part-of-geiyo-fortrrss-oshima-battery.htm )
(関連記事:#芸予要塞小島南部発電所 小島砲台弾薬庫 小島北部砲台 小島砲台北部地下兵舎 小島砲台北部発電所)
いつもはこの辺りを通っても、通り過ぎるだけだが、歩きであったためか引き寄せられるように参った。
暫くすると、隣家からおばあさんが出てきた。
「どちらからいらっしゃった?、このお宮は霊験あらたかで…明和年間の灯篭が残っておって…」
「私は87歳だが、子供のときからここにおって、それまでいろんなことがあった、社殿が燃えたり、三河地震で灯篭が倒れたりした」「この前、灯篭に車をぶつけて壊したままの近所の者がおったが、病んでしまった、今の人たちは何を考えているかわからん…でも神様はちゃんと見ておられる…」
「私は毎日、この神様にお参りさせて頂いている、昔は地区の月参りとして、貴方のお近くの砥鹿神社へ交代でお参りに行った、あとはビルマで亡くなった主人の霊を弔うために、靖国神社へ参拝したい、貴方はこうやってお参りされて、そこの何かを知ろうとされている、それは徳を積むことにつながるので、是非続けてください」
「ようこそお参りくださいました」と…。
宗教論者が語ることより、純粋な信心をされる人の言葉のほうが深く感銘を受け、我が振りを改めて見つめ直す機会となった。
江戸時代、長良川で捕れた鮎を寿司にして、この岐阜街道から美濃路を通って東海道を経て、江戸幕府将軍に献上したところから呼ばれるようになったという別名御鮨街道。
風情は今に続き、所々当時そのままと思わせる光景を残している。
(関連記事: 川原町 高富街道 御鮨街道ウォーキング)
静岡市は二回目。前回は駿府城を訪れたが、今回は浅間神社方面へと向かった。亡き父が「駿府には浅間さんがある…」と言っていたのを思い出したからである。
浅間神社境内には七社の神社が鎮座し、内、崇神天皇時代創建と伝えられ、奈良平安時代駿河国総社であった神部神社と、平安時代醍醐天皇勅願によって冨士本宮から分霊したという冨士新宮の浅間神社、応神天皇四年に創建されたと伝えられる奈吾屋大明神の大歳御祖神社を総称して静岡浅間神社と称している。
江戸時代には徳川幕府の尊崇を受けたことにより、十万両の費用と60年の歳月をかけ現在の漆塗り極彩色の社殿群が建造された。
神社上方には、賤機山(しずはたやま)古墳があり、静岡県では今のところ唯一である家形石棺を有し、国指定史跡に指定されている。
浅間通り商店街を歩き、様々な商店に立ち寄ってみた。
県都であり、商業都市であるため店の品性も高く、客層も良い。どちらが客で店員か?という場面をよく見た。ここで産業都市との差を非常に感じたのであった。
(関連記事:駿府城平成二十年 三嶋大社)
東海道の宿場町である草津。
中山道との分岐点でもある。
当時は旅籠が七十軒もあったという大きな宿であった。
現在は近畿のベッドタウンとして、人口12万人を有する街となった。
到着時刻が遅かったため、慌ただしい散策となったが、まず駅前を南西方向へ。
町より川床のほうが高い、いわゆる天井川であった草津川の跡を越え、草津宿町並みに入る。
当時の面影を残した町家や本陣跡、そして町並み交流館へと立ち寄る。
ここでは往時の町並みを模型で再現している。
街道の追分付近を散策、この辺りは神社仏閣が多い。
歴史はとても感じられるところである、然し急速に発展したためか、粗雑な部分も目立つ。
あとは住民各自がもっと意識を持って取り組めば、もっと素晴らしい街となるであろう。