(三輪別所 奈良県桜井市三輪)
山辺の道沿いに位置し、法相宗と真言宗との関係を持っていた平等寺は、かつては大神神社の神宮寺であったが、明治初年の神仏判然令により廃寺となった。昭和52年(1977)に至り、曹洞宗として再興している。
山辺の道沿いに位置し、法相宗と真言宗との関係を持っていた平等寺は、かつては大神神社の神宮寺であったが、明治初年の神仏判然令により廃寺となった。昭和52年(1977)に至り、曹洞宗として再興している。














(愛知県豊川市門前町)
門前通りから参道の路地を入ると、「薬師」と呼ばれる堂宇がある。天保年間(1830-43)に建立された堂内には薬師如来が祀られ、留守番として豊川閣の裁縫係がいる。私が在閣時代、よく世話になったところである。
門前通りから参道の路地を入ると、「薬師」と呼ばれる堂宇がある。天保年間(1830-43)に建立された堂内には薬師如来が祀られ、留守番として豊川閣の裁縫係がいる。私が在閣時代、よく世話になったところである。



(札幌市中央区南)
宿泊先に近かったため、夜の公園に通りかかった。
明治15年(1882)認可の中島遊園地を起源とし、貯木場由来の菖蒲池はスケート場としても利用されたが、現在は使われず、立ち入り禁止のロープが張られている。この菖蒲池に繋がる鴨々川は、公園ができるまでは二つの流れがあって、中島の名の由来ともなっている。
公園内には護国神社、伊夜日子神社、北海道立文学館、札幌コンサートホールKitara、豊平館、八窓館、児童会館、こぐま座等があり、寒い冬でも園内の往来は絶えない。
宿泊先に近かったため、夜の公園に通りかかった。





明治15年(1882)認可の中島遊園地を起源とし、貯木場由来の菖蒲池はスケート場としても利用されたが、現在は使われず、立ち入り禁止のロープが張られている。この菖蒲池に繋がる鴨々川は、公園ができるまでは二つの流れがあって、中島の名の由来ともなっている。





公園内には護国神社、伊夜日子神社、北海道立文学館、札幌コンサートホールKitara、豊平館、八窓館、児童会館、こぐま座等があり、寒い冬でも園内の往来は絶えない。










二年振りの札幌繁華街を歩いてみる。前回も思ったが、広い道路、テレビ塔、駅タワー、名古屋に似ている。然し、名古屋より行き交う人が多い。それは、地元民だけでなく、多地域から訪れる人が多いためのようてあった。この狸小路も、雪、雨風を凌げるため、商店街としては地下街の次に賑わいのある通りである。(がんばる商店街77選選定)
北海道民の多くは、祖先が移住者であるためか、居所に対しての執着心が少ないのだという。ただ、他所へ移住した際、それまでの食習慣と本州以南との違いに最初は戸惑うのだという。近年は次第に本州と同じようになってきているようだが、例えば、食肉に関して、豚肉、鶏肉が主で、牛肉はあまりなく、代わりに羊肉(ラム:ジンギスカン)が多い。また、寿司も温かいシャリを好んだという。

歩いているものの、体が冷えてきたため、札幌名物の一つという「スープカレー」を食し、体を温めた。


北海道民の多くは、祖先が移住者であるためか、居所に対しての執着心が少ないのだという。ただ、他所へ移住した際、それまでの食習慣と本州以南との違いに最初は戸惑うのだという。近年は次第に本州と同じようになってきているようだが、例えば、食肉に関して、豚肉、鶏肉が主で、牛肉はあまりなく、代わりに羊肉(ラム:ジンギスカン)が多い。また、寿司も温かいシャリを好んだという。




歩いているものの、体が冷えてきたため、札幌名物の一つという「スープカレー」を食し、体を温めた。
(奈良県桜井市金屋 国指定重要文化財)
山辺の道沿いにある石仏である。以前は三輪山腹にあったが、保存のため堂宇を建て現在地に移された。
高さ2.2m,幅0.8m,厚さ21cmの粘板岩に刻まれた浮き彫りの像で、右が釈迦、左が弥勒像である。平安後期から鎌倉時代に造られたものと推定されている。
山辺の道沿いにある石仏である。以前は三輪山腹にあったが、保存のため堂宇を建て現在地に移された。

高さ2.2m,幅0.8m,厚さ21cmの粘板岩に刻まれた浮き彫りの像で、右が釈迦、左が弥勒像である。平安後期から鎌倉時代に造られたものと推定されている。
私は現地に着いてから行き先を考えることが多い。この日も小樽、モエレ沼公園、藻岩山を候補に挙げた。然し、日没時間までが二時間を割っていたため、藻岩山に向かった。
札幌市電でロープウェイ入口に到着。早速、乗り場に向かうと、定期点検で明後日まで休止中との表示。誤算であった。
山麓付近を散策、宿泊先の方向である東へ歩みを進めると、辺りは真っ暗になっていた。
(旧小熊邸)
札幌市電でロープウェイ入口に到着。早速、乗り場に向かうと、定期点検で明後日まで休止中との表示。誤算であった。
山麓付近を散策、宿泊先の方向である東へ歩みを進めると、辺りは真っ暗になっていた。







(しきのみずかきのみや 奈良県桜井市金屋)
奈良時代の書物、六国史(りっこくし)日本書紀によると、往時は周辺が湿地であり、中央に丘があって「磯城島:しきしま」と呼ばれていたという。その場所に第十代崇神天皇王朝時代(BC97-BC29)都が築かれたとされる。現在の志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社付近とされ、山辺の道、大神神社に隣接していた。
奈良時代の書物、六国史(りっこくし)日本書紀によると、往時は周辺が湿地であり、中央に丘があって「磯城島:しきしま」と呼ばれていたという。その場所に第十代崇神天皇王朝時代(BC97-BC29)都が築かれたとされる。現在の志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社付近とされ、山辺の道、大神神社に隣接していた。




近所にある集会所である。私が子どもの頃は保育園であった。然し、隣接する神社所有の土地であったため、神社側が返してほしいということになり、保育園は他所へ移転した。その後は集会所として使われてきたが、老朽化が著しく、長年を経てようやく隣に建て替えられることになった。そして、取り壊されることになった…。
「大ブロ」とは、この地方で社叢(神域の森)を意味する。近年、区間整理により、この地名は消滅した。
「大ブロ」とは、この地方で社叢(神域の森)を意味する。近年、区間整理により、この地名は消滅した。
(札幌市交通局市内電車)
札幌の南西部には、路面電車が残っている。西4丁目から、すすきのまでの8.4kmは、一条線(西4丁目-西15丁目)、山鼻西線(西15丁目-中央図書館前)、山鼻線(中央図書館前-すすきの)の3路線により成り立っているが、現在は支線がないため一線直通運転をしている。
(1985年製8500形)
(車輌センター)
(1959年製220形)
明治42年(1909)札幌軟石輸送線を起源とし、石切山からの石材輸送のために築造された。明治45年(1912)には馬車鉄道となり旅客化し、大正7年(1918)には電化され、昭和2年(1927)には市営となった。最盛期には現在の三倍の総延長であったが、利用者減少、地下鉄建設で距離を減らしている。近年、札幌駅付近までの延伸及びLRT構想が持ち上がったが、賛否両論となり、構想は凍結している。
札幌の南西部には、路面電車が残っている。西4丁目から、すすきのまでの8.4kmは、一条線(西4丁目-西15丁目)、山鼻西線(西15丁目-中央図書館前)、山鼻線(中央図書館前-すすきの)の3路線により成り立っているが、現在は支線がないため一線直通運転をしている。



明治42年(1909)札幌軟石輸送線を起源とし、石切山からの石材輸送のために築造された。明治45年(1912)には馬車鉄道となり旅客化し、大正7年(1918)には電化され、昭和2年(1927)には市営となった。最盛期には現在の三倍の総延長であったが、利用者減少、地下鉄建設で距離を減らしている。近年、札幌駅付近までの延伸及びLRT構想が持ち上がったが、賛否両論となり、構想は凍結している。
(奈良県桜井市金屋)
日本書紀によると、欽明天皇十三年(552)百済の聖明王が使者である達率(だちそら)と致契(ちけい)らを遣わして、金銅釈迦牟尼像、衣笠、経典等を欽明天皇に献上するために、難波津から大和川を遡り、この海柘榴市の湊から上陸したという。
日本書紀によると、欽明天皇十三年(552)百済の聖明王が使者である達率(だちそら)と致契(ちけい)らを遣わして、金銅釈迦牟尼像、衣笠、経典等を欽明天皇に献上するために、難波津から大和川を遡り、この海柘榴市の湊から上陸したという。