(神奈川県鎌倉市坂ノ下 2015年6月14日)
(神奈川県鎌倉市大町)
真言宗能成寺として開山し、弘安五年(1282)公忍のとき、一遍に帰依して覚阿と改名し、時宗となった。境内には室町幕府に対し永享の乱を起こし自害した鎌倉公方足利持氏の宝塔(供養塔)と、一夜菜稲荷の祠がある。昔、名越に住む稲荷を信仰する村人が夢中枕頭に白髪の翁が立ち「我は汝の日頃信ぜる佐竹稲荷の化身なり。此度の悪疫の流行、庶民の難渋まことに不愍のいたり、見るに堪へざる所なり。されば、我が祠前に菜種を蒔き、其れわ摘みて服用すべし。必ず効験あらん」と告げた。村人は祠前に菜種を蒔き、一夜にして菜五寸余になったという。故に一夜菜稲荷と呼ばれるようになった。
(曹洞宗福地山修禅萬安禅寺 静岡県伊豆市修善寺 2015年6月13日)
大同二年(807)空海によって真言宗桂谷山寺として開創されたという。建仁三年(1203)鎌倉幕府二代将軍源頼家は北条氏によって修禅寺に幽閉された。頼家は川のほとりに住む面打師夜叉王に自分の顔を写した面を頼んだ。夜叉王には桂という娘がおり、頼家の幽閉先に奉公させることにした。然し、翌年に北条氏臣が修禅寺へ夜討ちを謀り、桂は頼家の顔を写した面をつけ頼家の身代わりになったが、頼家も討ち死にした。建長年間(1249-55)南宋渡来僧蘭渓道隆によって臨済宗に改められ、その後兵火によって荒廃したが、北条早雲によって再興された。
(東京都千代田区外神田)
上総久留里藩黒田家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家下屋敷の五軒の大名屋敷が存在したことから名付けられ、昭和39年(1964)まで地名として存在した。