(Former Steele Memorial Academy 長崎市南山手町)
明治20年(1887)アメリカのダッチ・レフォ−ムド教会伝道局長スチイル博士が寄贈した資金により、東山手9番地に開設された学校の校舎である。その後、東山(とうざん)学院と改称し、昭和7年(1932)東山学院は東京の明治学院に合併した。以後、海星学園施設等に使用され、昭和49年(1974)現在地に移築された。
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(愛知県豊橋市賀茂町神山)
賀茂神社の南西側は、間川の流路跡を利用して菖蒲園として整備されているが、北西側は暫く放置されていた。その後、緩やかな歩みではあるが、豊富な緑を活かした公園として整備され始めた。
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(長崎市南山手町 国指定重要文化財)
慶応元年(1865)大浦天主堂建設の際に棟梁を務めた、小山秀之進が建築したウィリアム・オルトの住宅である。明治12年から15年までの間、活水学院の校舎に使われたことがあったが、後にフレデリック・エラスマス・エドワード・リンガーの暮らす住宅となった。
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(長崎市南山手町 国指定重要文化財)
明治2年(1869)この地に建てられたとされるリンガー邸は、木造石壁平屋建、350.8㎡の瓦葺に欧風意匠を持つ建物である。英国人貿易商フレデリック・アーサー・リンガーと、次男のシドニー・アーサー・リンガーが第二次世界大戦が始まるまで暮らしていた住宅であり、昭和40年(1965)長崎市が買収した。
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(馬越紺屋谷古墳群 愛知県豊橋市石巻本町口明塚)
長火塚古墳の西に位置する円墳である。私が子どもの頃から知る古墳であり、付近では口明塚と呼ばれていることから、過去には石室が開口していたものと想像できる。その後の耕作によって墳頂が平らになり、クリスマスケーキ及び切り株形となっている。この日は、発掘調査が行われていて、古墳の基部及び墳丘の確認調査が開始され始めたときで、トレンチから葺石及び石材が検出されていた。
(長火塚古墳から望む)
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(愛知県豊川市三上町・豊橋市賀茂町・石巻小野田町)
とよがわ左岸の間川が合流する地点は、古くから堤防が不連続となっている場所である。これは霞堤といい、増水時に堤防にかかる負荷を抑えるのと、水を一時的に逃がすことで流水量を抑え、且つ排水を容易にする役割を持つ中世からの知恵である。このような地点は、左岸では豊川市金沢町、豊橋市下条町、牛川町でもみられる。現在は霞堤も少なくなり、堤防も高くなったが、台風などの増水時には、その役割を確認することができる。
(微高地の名残)(賀茂霞堤)(間川左岸霞堤防)
(長崎市南山手町)
海運業R・N・ウォーカー商会を設立したロバート・ネール・ウォーカーの次男、ウォーカー・ジュニアの住宅である。明治中期に建てられた平屋建和洋折衷建築で、大浦天主堂に隣接した場所に存在したものを、この地に移築したものである。
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海運業R・N・ウォーカー商会を設立したロバート・ネール・ウォーカーの次男、ウォーカー・ジュニアの住宅である。明治中期に建てられた平屋建和洋折衷建築で、大浦天主堂に隣接した場所に存在したものを、この地に移築したものである。
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(権田屋敷 愛知県豊川市柑子町五反田)
柑子(こうじ)村鎮守である出雲神社北側に位置し、大村井水(松原用水)に沿った場所に存在した屋敷跡である。吉田城主池田輝政臣である鋤柄百度(ずんど)右衛門及び権田織部(権太泰長か)が住した屋敷という。
柑子(こうじ)村鎮守である出雲神社北側に位置し、大村井水(松原用水)に沿った場所に存在した屋敷跡である。吉田城主池田輝政臣である鋤柄百度(ずんど)右衛門及び権田織部(権太泰長か)が住した屋敷という。
(長崎市南山手町 国指定重要文化財)
大浦教会からグラバー園に差し掛かる頃には、小雨が降り出した。周囲の人たちは「今日は雨が降るなんて言ってなかったよね」と口々に言っていた。また私の負の能力が働いたのか?と思わせた。
グラバー邸は、文久三年(1863)に建築された、貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの住宅である。その後、昭和14年(1939)長崎造船所の所有となり、昭和32年(1957)同所の百周年を機に長崎市に寄贈された。
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大浦教会からグラバー園に差し掛かる頃には、小雨が降り出した。周囲の人たちは「今日は雨が降るなんて言ってなかったよね」と口々に言っていた。また私の負の能力が働いたのか?と思わせた。
グラバー邸は、文久三年(1863)に建築された、貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの住宅である。その後、昭和14年(1939)長崎造船所の所有となり、昭和32年(1957)同所の百周年を機に長崎市に寄贈された。
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(愛知県蒲郡市大塚町笹子 1999年1月16日)
現在古墳は跡形も無く、畑の一角に供養のための石祠と、石室の石材の一部が存在するだけであるが、大正時代までこの辺りは笹子山という丘陵地であり、前方後円墳が存在したという。その後開墾が行われ、削平された古墳からは装身具、須恵器が出土し、その副葬品は東京国立博物館に所蔵された。
現在古墳は跡形も無く、畑の一角に供養のための石祠と、石室の石材の一部が存在するだけであるが、大正時代までこの辺りは笹子山という丘陵地であり、前方後円墳が存在したという。その後開墾が行われ、削平された古墳からは装身具、須恵器が出土し、その副葬品は東京国立博物館に所蔵された。