(東京都江東区有明)
りんかい線で東京湾埋立10号地にやってきた。居住人口よりも来訪人口が多い場所であり、周辺部よりも明らかに形状の違う構築物が並ぶ。
(関連記事:旧東京都港湾局晴海線晴海橋梁)
(京都府木津川市加茂町東小下井手口)
浄瑠璃寺から岩船寺に至る途中、自然石に燈明が入るよう刳り貫かれている「愛宕燈籠」がある。愛宕信仰は火防の加護があるとして崇められ、この地では正月にこの愛宕燈籠から「をけら火:聖火」を採り、雑煮を炊く風習があったという。
(愛知県新城市宮ノ前 1983年)
曹洞宗幸雲山宗堅寺の境内には、土岐氏族である菅沼家の墓所がある。慶安元年(1648)に菅沼定実(さだざね)が丹波亀山(京都府亀岡市)から新城城に移封した際に、宗堅寺もこの地に菩提寺として移され(亀岡宗堅寺も現存)、定実、定賞(さだよし)、定易(さだやす)、定用(さだもち)、定庸(さだつね)、定前(さださき)、定賢(さだかた)、定邦(さだくに)、定志(さだゆき)、盈富(みつとみ)、定信(さだのぶ)、定長(さだなが)の十一代の墓碑(五輪塔)がある。
(山口県萩市東田町・西田町)
萩往還の起点である唐樋札場から西に伸びる商店街である。古くからの繁華街であり、昭和45年(1970)にはアーケードが設置された。かつては山口県の日本海側唯一の百貨店もあったが、次第に町が衰退し、シャッター街となった。「がんばる商店街77選」にもなっているが、二代目のアーケードも老朽化が始まり、撤去するかの議論も起こっている。
(田町の入口に建つUFOビル)
(真言律宗小田原山浄瑠璃寺 京都府木津川市加茂町西小札場 国宝 国指定重要文化財 特別名勝)
藪の中三尊磨崖像から一旦西に向かうと、永承二年(1047)僧義明によって開創された浄瑠璃寺がある。 久安六年(1150)興福寺権別当をつとめた一乗院門跡の恵信(藤原忠道の子)は、浄瑠璃寺を一乗院の御祈所とし、伽藍と庭園を整備している。その庭園の宝池を挟んで国宝の本堂と三重塔が建ち、平安時代の光景を今に伝えている。
嘉承二年建造の本堂
治承二年(1178)京の一条大宮から移築したという三重塔
弁天島
三重塔横の発掘調査
(浜松市天竜区水窪町地頭方 市指定史跡)
塩の道沿い、飯田線の傍らに標示が建つ。昭和30年(1955)天竜川佐久間ダム築造に伴う飯田線付替工事によって、縄文時代後期から弥生時代前期の石器、土器が発見され、明らかになった遺跡である。
(愛知県岡崎市渡町井領 市指定史跡 1983年)
天文十六年(1547)松平広忠が叔父の松平信孝と対立し、織田信秀軍とあわせて戦ったのが、矢作川右岸のこの地である。渡の領主鳥居忠宗も広忠軍に参戦し、忠宗は討死したものの広忠軍は勝利した。
(川崎市多摩区)
知人のご案内で、都会のオアシス、生田緑地を訪れた。園内は豊富な自然の中に岡本太郎美術館、日本民家園、宙と緑の科学館等文化施設もあり、川崎市社会教育の要となっている。
岡本太郎美術館
曲り屋 国重文 旧工藤家住宅
県重文 ハッポウ造 旧菅原家住宅
釿(ちょうな)の後の残る木材
回り舞台下部 国重民 旧船越の舞台 舞台の花道 回り舞台上部 県重文 旧広瀬家住宅 沖永良部島の高倉 国重文 旧作田家住宅 松の曲材の梁
県重文 合掌造旧山下家住宅
県重文 合掌造旧野原家住宅
県重文 合掌造旧山田家住宅 囲炉裏火天(火棚:火防・乾燥) 国重文 佐々木家住宅 県重文 井岡家住宅の揚戸