(湯釜薬師 愛媛県松山市道後湯月町 県指定文化財)
湯築城跡にある花崗岩製の湯釜は、もと道後温泉の湧出口であり、明治27年(1894)道後温泉本館が建てられるまで使用され、昭和25年(1950)現在地に移転している。
湯釜は天平勝宝年間(741-757)に造られたとされ、正応元年(1288)河野通有の依頼により、一遍智真が湯釜の宝珠部分に「南無阿弥陀仏」と書いたとされる。また、側面には享禄四年(1531)河野通直が尾道の石工に命じ、上部正面に薬師瑠璃光如来の像、側面に近隣天徳寺の徳應禅師による温泉記を彫らせている。
北海道有数の工業、港湾都市として発展した苫小牧。市域に新千歳空港もあり物流が盛んであるが、商業は他所同様著しく衰退しているようであった。
苫小牧(トマコマイ)は、アイヌ語でトマコマナイ(沼の奥の川)を意味する。
(関連記事:ウトナイ湖)
(道後八幡 湯月八幡 愛媛県松山市桜谷町)
宝厳寺の南隣に鎮座する神社である。仲哀天皇、神功皇后が道後の地に訪れた際の行宮跡、伊佐爾波岡(いさにわのおか)に、譽田別尊(ホンタワケノミコト:応神天皇)を祀ったのが始まりという。その後、伊佐爾波岡に河野氏が湯築城を築いたため、現在地に遷宮したものである。
寛文七年(1667)松平定長が寄進した、国指定重要文化財の本殿、透塀、申殿、楼門、廻廊がある。
宝厳寺の南隣に鎮座する神社である。仲哀天皇、神功皇后が道後の地に訪れた際の行宮跡、伊佐爾波岡(いさにわのおか)に、譽田別尊(ホンタワケノミコト:応神天皇)を祀ったのが始まりという。その後、伊佐爾波岡に河野氏が湯築城を築いたため、現在地に遷宮したものである。
寛文七年(1667)松平定長が寄進した、国指定重要文化財の本殿、透塀、申殿、楼門、廻廊がある。
(福岡県太宰府市観世音寺 国指定史跡)
太宰府の役人を養成したとされる機関が、この学校院である。旧字には「学業」が伝わっている。天応元年(781)の『太政官符』には「府学校に六国の学生、医生、算生は二百余人あり」と見える。昭和44年(1969)に発掘調査が行われ、奈良時代後期から室町時代の掘立柱建物遺構、溝、築地が検出されている。
太宰府の役人を養成したとされる機関が、この学校院である。旧字には「学業」が伝わっている。天応元年(781)の『太政官符』には「府学校に六国の学生、医生、算生は二百余人あり」と見える。昭和44年(1969)に発掘調査が行われ、奈良時代後期から室町時代の掘立柱建物遺構、溝、築地が検出されている。
(時宗豊國山遍照院 愛媛県松山市道後湯月町)
今回で三度目の参拝になる。私はこの寺に縁のある僧に対して、血縁だけではないものを感じるのである。
私は、小学生のときに母を亡くした。そして、父の仏縁によって私は出家した。然し、私が二十五歳のとき父が他界、家督を継ぐために還俗したのである。その後、私は宗教の組織化というものに疑問を抱き、神道、キリスト教、新興宗教、様々な宗教に接し、仏教は寺院を構えては駄目だという結論に達した。そして、生来一箇所に留まれない私は、時間を見つけては各地を流浪するようになったのである。
私の今後は如何様になっていくのであろうか。私の最期が近いのかもしれない。
(関連記事:寶厳寺平成二年 平成十七年)
今回で三度目の参拝になる。私はこの寺に縁のある僧に対して、血縁だけではないものを感じるのである。
私は、小学生のときに母を亡くした。そして、父の仏縁によって私は出家した。然し、私が二十五歳のとき父が他界、家督を継ぐために還俗したのである。その後、私は宗教の組織化というものに疑問を抱き、神道、キリスト教、新興宗教、様々な宗教に接し、仏教は寺院を構えては駄目だという結論に達した。そして、生来一箇所に留まれない私は、時間を見つけては各地を流浪するようになったのである。
私の今後は如何様になっていくのであろうか。私の最期が近いのかもしれない。
(関連記事:寶厳寺平成二年 平成十七年)