(埼玉県草加市住吉 国登録有形文化財)
大正15年(1926)に築造された、埼玉県初のRC造2階建、延床面積666m2の校舎である。昭和21年(1946)草加小学校と改称され、昭和57年(1982)草加市歴史民俗資料館となり、現在に至っている。
(幡豆往還 愛知県蒲郡市形原町東上野 2005年6月24日)
浄土宗上野山利生院の前には、竹谷(蒲郡市竹谷町)で吉良道(平坂街道)から分かれ、三河湾沿いに形原を経て幡豆に至る形ノ原道の道標がある。嘉永五年(1852)に建立され、「當国三十三所第十二番生院 左 にし浦 はづ道」と刻まれている。
(埼玉県草加市)
日光街道・奥州街道の宿場町である草加(そうか)は、同じ足立郡内の千住宿の次の宿であるが、当初は千住宿の次が越ヶ谷宿であった。その後、日光街道の草加新道が整備され、草加宿が設けられた。近年はベッドタウン化が進み、新旧が混在する光景が広がっている。
(愛知県宝飯郡一宮町江島・新城市八名井 2005年5月16日)
旧宝飯・設楽・八名郡境の豊川左岸から本宮山を望む。延喜三年(903)割寶飯郡、置設楽郡により、穂川(豊川)に注ぐ雀部(ささべ)郷(宝飯郡一宮町東上)と賀茂郷稲置(いなぎ)里(新城市稲木・川田)の間に流れる穂山(本宮山)源流の滝川(境川)を郡境と定めた。
(愛知県宝飯郡一宮町一宮字西垣内 2005年6月24日)
砥鹿神社の背後、畑の中に直径5m程の塚がある。古墳とも中世の塚(経塚)とも言われるが、発掘されていないため分からない。塚の名も形が兜形であるからか、兜が出土したからかも不明である。
(東京都品川区上大崎)
山手線目黒恵比寿間跨線橋下にある、山手貨物線(東海道線支線:湘南新宿ライン)の踏切である。並行する山手線の踏切は駒込田端間の第二中里踏切のみで、山手貨物線の踏切は、この他厩道踏切と青山街道踏切の三ヶ所がある。長者丸の名の由来は、旧大崎町の字名によるが、白金長者と呼ばれた柳下上総介が近隣に住んでいたことによる。
明治18年(1885)西三河を潤す明治用水の管理が愛知県から土功会に移管され、その際に碧海郡役所に隣接して同会事務所として築造された木造2階の建物である。明治23年(1890)陸軍大演習が行われた際には、明治天皇の休憩所として使用された。明治41年(1908)明治用水水利組合となり、大正3年(1914)安城町(1952-安城市)に移転、代わって愛知工芸学校として利用され、大正13年(1924)岡崎工業高校として移転、知立縫製女学校となったが、昭和6年(1931)廃校となった。昭和9年(1934)知立神社境内に移築され、以降は養生館として利用されている。
(神奈川県藤沢市片瀬)
江ノ島に程近い斜面にある寺院である。この場所は創建以前に龍ノ口処刑場があり、日蓮が他宗や幕府に対して異論を唱えたため、日蓮はこの地に連行され処刑されることとなった(龍ノ口法難)が、何らかの理由により免れることができた。日蓮の弟子日法はこの地を龍ノ口法難霊蹟として敷皮堂を建てたが、寺院としての体を成すのは江戸時代に入ってからである。