(臨済宗衣笠山地藏院 京都市西京区山田北ノ町)
鎌倉時代、内大臣で歌人の藤原家良の山荘があったこの地。応安元年(1368)室町幕府管領細川頼之により地藏院が創建された。また、一休宗純が出家まで母と暮らした場所とされる。応仁の乱の兵火により焼失し衰退するが、江戸時代に入り現状まで再興した。現存する方丈は貞享三年(1686)に再建されたものであり、その前の庭は十六羅漢の庭と呼ばれ、夢窓疎石の弟子で開山の碧潭周皎(宗鏡)が作庭したものという。
(奈良県吉野郡吉野町吉野山 2008年4月21日)
標高750mの奥の千本には、平安時代後期から鎌倉時代初期の僧西行が三年間暮らしたという。西行は武家に生まれたが、二十二歳のとき突然出家し、宗派には属さず諸国を流浪して歌を読み続けた。吉野に住した際に詠まれたとされる歌に「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」がある。
(臨済宗洪隠山西芳寺 京都市西京区松尾神ヶ谷町 世界文化遺産 国指定特別名勝 国指定史跡 国指定重要文化財)
飛鳥時代、聖徳太子自身が制作した阿弥陀如来像を祀る別荘がこの地にあったという。天平年間(729-49)聖武天皇の勅願により行基によって別荘を法相宗西方寺に改めたとされる。その後、空海が一時住し、法然が浄土宗に改宗したという。南北朝時代の争乱で荒廃したが、暦応二年(1339)松尾大社宮司の藤原親秀の招請で禅僧夢窓疎石によって臨済宗西芳寺に改められ再興された。夢窓疎石によって枯山水と池泉回遊式の庭園が作庭され、足利義満、義政はここで坐禅をし、金閣、銀閣への築造に繋がった。黄金池のほとりに建つ湘南亭は、千利休の次男である千少庵が建立した。文久二年(1862)尊王攘夷派の攻撃を避けるため、岩倉具視は湘南亭に匿われたという。
黄金池(心字池)
重文 湘南亭
指東庵
枯山水
(名鉄小牧線終点 名古屋市北区上飯田通 2005年11月7日)
一昨年訪れたときは地下化直後であり、旧上飯田駅の築堤を撤去しているところであったが、今回は整地され駐車場となり、駅舎の入口も塞がれていた。昭和40年(1965)名鉄上飯田ビル築造を機に2階に駅舎ができたが、平成15年(2003)地下鉄上飯田線と相互乗り入れにより地下化された。
(京都市西京区松室山添町 旧名神大社)
顕宗天皇三年(487)任那(朝鮮)への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月讀神(つきよみのかみ)から神託があり、社地を求められた。朝廷は山背国葛野郡歌荒樔田(やましろのくにかどののこおりうたあらすだ)を社地とし、壱岐県主祖(いきあがたぬし)の押見宿禰(おしみのすくね)が奉斎したという。斉衡三年(856)現在地に遷座した。現在は松尾大社の境外摂社となっている。
(桂川用水 京都市西京区嵐山)
桂川渡月橋上流の一ノ井堰から長岡京に至る延長20kmの用水である。古墳時代に秦氏によって開削したとされる。江戸時代初期には豪商角倉了以(すみのくらりょうい)によって整備されている。
(三重県名張市平尾 2008年4月19日)
曹洞宗龍雄山徳蓮院は、寛永十三年(1636)藤堂高吉が伊予今治から当地に移った際、それまでの真言宗龍亀山大連寺から改宗改号され名張藤堂家の菩提寺となった。境内には初代高吉から、長正、長守、長源(ながもと)、長熈(ながひろ)、長美、長旧(ながひさ)、長教、長徳、十代高美(たかよし)までの墓碑がある。
曹洞宗龍雄山徳蓮院は、寛永十三年(1636)藤堂高吉が伊予今治から当地に移った際、それまでの真言宗龍亀山大連寺から改宗改号され名張藤堂家の菩提寺となった。境内には初代高吉から、長正、長守、長源(ながもと)、長熈(ながひろ)、長美、長旧(ながひさ)、長教、長徳、十代高美(たかよし)までの墓碑がある。
(三重県名張市平尾 2008年4月19日)
嘉永六年(1853)名張の平尾村は高台であったために旱魃になりやすく、平尾村年寄役市橋武助が名張川上流比奈知村庄屋の大道寺与兵衛に相談をし、両者の私財により6kmの用水を開削した。明治2年(1872)に完成し、その功績を讃える高さ4.6mの石碑が建立された。
(京都市右京区嵯峨天龍寺車道町・造路町)
山陰線(嵯峨野線)嵯峨嵐山駅は明治30年(1897)京都鉄道(1907-国有化)終点嵯峨駅(1994-嵯峨嵐山)として開業した。現在の駅舎は平成19年(2007)に築造されたものであり、それまでは開業当時の駅舎であった。また、平成元年(1989)山陰線の新線移行に伴い、旧線が嵯峨野観光鉄道となり、トロッコ嵯峨駅が隣接している。嵐山駅は明治43年(1910)嵐山電車軌道(1942-京福電気鉄道)の終点として開業した。両駅は約300m離れているが、共に桂川左岸の嵐山玄関口となっている。