(札幌市中央区伏見 札幌景観資産第32号 さっぽろ・ふるさと文化百選11番 2009年12月10日)
昭和2年(1927)北海道帝国大学農学博士小熊桿(まもる)邸として、建築家田上義也の設計により札幌郡円山村(札幌市中央区南1条西)に築造された、木造2階建、延床面積145m2の住宅である。昭和26年(1951)からは北海道銀行の所有となり、平成10年(1998)現在地に移築された。
大正15年(1926)に竣工した、RC造一部煉瓦造3階塔屋付、延床面積1,200mのセセッション様式の図書館建物である。昭和42年(1967)に図書館は江別市に移転し、同館は北海道立美術館となった。昭和55年(1980)からは、北海道立文書館別館となっている。
(静岡市葵区両替町 2010年1月6日)
昭和15年(1940)に発生した静岡大火の復興事業として防火帯を設置し、延長500m,幅36m,内緑地帯18mの都市計画道路青葉通線となった。昭和63年(1988)から平成3年(1991)にかけて緑地化され、毎年冬にはイルミネーションが飾られるようになった。
(静岡県藤枝市岡部町岡部 2010年1月6日)
旧東海道宇津ノ谷峠岡部側の麓には、元禄年間に再建された地蔵堂がある。境内には同時期に建てられた鐘楼と、文政十三年(1830)に建てられた平安時代からの古東海道、蔦の細道を顕彰する「蘿径記」の石碑、「賽の河原」と呼ばれる、行き倒れになった旅人達の五輪塔がある。この地蔵堂には石仏の他、木造の延命地蔵があり秘仏となっている。また、この地蔵堂にまつわる伝説がある。「鼻取地蔵」は、一日の農作業を終えた百姓が家に帰る途中、連れていた牛が急に動かなくなってしまった。百姓が困っていると、一人の子どもが現れて牛の鼻を取り楽々と引いていったが、百姓が目を離した隙に子どもは姿を消してしまった。残っていた足跡を辿ると地蔵堂の中で消えていたという。更に、ある農家で田植えの時期に人手が足りなくて困っていると、見慣れない子どもが現れて馬の鼻を引き手伝ってくれた。然し、昼飯時になると、子どもの姿が見当たらなくなった。翌日、田植えが早く終わったので、その家の主人が地蔵堂へお参りに行くと、地蔵の足が泥まみれになっていたという。「稲刈地蔵」は、地元の一人の若者が、稲刈りの後で仲間と伊勢参りに行くことになっていた。出発の前日までに稲刈りが終わらなかったが、翌朝起きてみると、稲はすべて刈り取られていたという。更に、伊勢参りの道中、府中から来たという青年がこの若者に親切にしてくれた。伊勢から帰った後で、若者がこの青年を府中へ送って行こうとすると、青年はこの坂下地蔵堂に入って姿を消したという。 儒学者 羽倉簡堂撰文の羅径記石碑
(岐阜市打越 2009年11月13日)
中世、川島氏が奉祭したのが始まりとされる。永禄十三年(1570)、延宝六年(1678)、元禄九年(1696)、明和元年(1764)、天明五年(1785)の棟札が残る。
(岐阜市城田寺 2009年11月13日)
天慶五年(942)天から舎衛国と書かれた旗が落ちてきたため真言宗城田山舎衛寺が建立され、旗堕寺とも称した。これが地名の城田寺(きだいじ)の由来である。明応五年(1496)城田寺城の戦いにより焼失している。