(東山道 上街道 犬山街道 愛知県犬山市善師野)
今まであまり訪れなかった一角、東海自然歩道尾張地内のうち、犬山北東部を訪れてみることとした。
駅の西方は、木曽街道(上街道)善師野の宿である。集落を通り、熊野神社方面へ続く道は、東山道(古中山道)であったといわれている。また、上街道と犬山の城下を結ぶ短絡の犬山街道がこの地で分かれていた。
新興住宅地四季の丘西側の丘に鎮座する熊野神社は、小さな社ながら信仰心を刺激されるような力を感じとれた。また、様々な金石信仰対象があり、更に徳が篤くなるような思いがした。
神社の丘の辺りは、1700万年前に池があったと推定され、その周辺に自生していたメタセコイア等の植物化石層が露呈しており、悠久の時も合わせて感じとれた。
ここから北4kmの、もみじの郷里と言われる寂光院方面へと向かう。
(関連記事:犬山城 桃太郎神社 犬山祭)
欽明6年(634)大和国高田に生まれた役小角(えんのおづぬ)は、呪術者であり修験道の開祖としても知られる。
後に吉野山金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
後の世の寛政11年(1799)には、朝廷より、神変大菩薩の称号が追贈された。
役小角は、平安前期に書かれた「日本霊異記」によると、五色の雲に乗って、果てしなく大空の外に飛び、力を養う霞などを吸ったり、食べたりでき、更に洞窟に住み、葛を着、松を食べ、孔雀の呪法を会得し、不思議な威力の現れる仙術を身につけることができたと記している。
「川路の役ノ行者」は、武田軍と織田徳川軍が戦った長篠の戦い、設楽ヶ原の一角に位置し、近くに滝のある森の中にひっそりと佇んでいる。
後に吉野山金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
後の世の寛政11年(1799)には、朝廷より、神変大菩薩の称号が追贈された。
役小角は、平安前期に書かれた「日本霊異記」によると、五色の雲に乗って、果てしなく大空の外に飛び、力を養う霞などを吸ったり、食べたりでき、更に洞窟に住み、葛を着、松を食べ、孔雀の呪法を会得し、不思議な威力の現れる仙術を身につけることができたと記している。
「川路の役ノ行者」は、武田軍と織田徳川軍が戦った長篠の戦い、設楽ヶ原の一角に位置し、近くに滝のある森の中にひっそりと佇んでいる。
万人から愛されるという呪(まじな)い符。
古代から伝わるというものが、江戸前期の貞享元年(1684)に発行された「邪兇呪禁法則」という書物に記載されている。
この霊符は他人から愛され、敬われる符とされる。
書物に記された符を自分で書き写し、肌身離さず持っているか、壁に貼ることで、効力を発揮するといわれ、後の神道人も効果が高い符として紹介している。
古代から伝わるというものが、江戸前期の貞享元年(1684)に発行された「邪兇呪禁法則」という書物に記載されている。
この霊符は他人から愛され、敬われる符とされる。
書物に記された符を自分で書き写し、肌身離さず持っているか、壁に貼ることで、効力を発揮するといわれ、後の神道人も効果が高い符として紹介している。
一般的に運命を共にするという意味に使われている。
然し本来は、皆が浄土に生まれ変わり、同じ蓮の上で生きようという意味である。
「具会一処」も同意語。先立つ人も何時の日か仏の元で逢うことになるという意。
私もこの事柄に苦しんだ時期があったが、今では将来への楽しみに変わった。
然し本来は、皆が浄土に生まれ変わり、同じ蓮の上で生きようという意味である。
「具会一処」も同意語。先立つ人も何時の日か仏の元で逢うことになるという意。
私もこの事柄に苦しんだ時期があったが、今では将来への楽しみに変わった。
拘置所生活…私はお陰さまで今のところお世話になってはいないが、内容からして然程辛いものでないと感じた。
私が過去に経験してきた同等、それ以上の拘束、制限、屈辱を比べたとき、カルチャーショックはないなと思ったのである。
欲望の調節ができる私にとって、いつでも準備万端といったところか。
然し、生活環境圧力に対しては問題はないものの、人間的圧力だけは耐えがたいかもしれない。
私が過去に経験してきた同等、それ以上の拘束、制限、屈辱を比べたとき、カルチャーショックはないなと思ったのである。
欲望の調節ができる私にとって、いつでも準備万端といったところか。
然し、生活環境圧力に対しては問題はないものの、人間的圧力だけは耐えがたいかもしれない。
我が家にある戌の字の判子である。
ちなみに我が家の苗字は、既製品の判子では見当たらない名前である。
いつも特注で待たされる。
以前、我が家のポストに、私の下の名前だけの新しい判を、金襴皮張りのケースに入れて放り込まれていたことがあった。
私の知る範囲の人に尋ねたが、誰も知らないという…。
結局、分からずじまいである。
十分?のカテゴリに入りそうな事件であった。
ちなみに我が家の苗字は、既製品の判子では見当たらない名前である。
いつも特注で待たされる。
以前、我が家のポストに、私の下の名前だけの新しい判を、金襴皮張りのケースに入れて放り込まれていたことがあった。
私の知る範囲の人に尋ねたが、誰も知らないという…。
結局、分からずじまいである。
十分?のカテゴリに入りそうな事件であった。
金を得ることの極地に達したために、行き詰まる会社。
これは某IT会社に限ったことではなく、営利を最優先した会社全てに言えることである。
IT業界はメディアを主に使って業務をしているため、真っ先に標的になるのであろう。
世の中、本当に無茶な金稼ぎはやめないか
金がために、「人」も信頼も失うぞ。
これは某IT会社に限ったことではなく、営利を最優先した会社全てに言えることである。
IT業界はメディアを主に使って業務をしているため、真っ先に標的になるのであろう。
世の中、本当に無茶な金稼ぎはやめないか
金がために、「人」も信頼も失うぞ。
三留野から、やがて妻籠宿の端に着く。
博物館となっている、国指定文化財の脇本陣跡の建物に入る。
囲炉裏が焚かれており、普段は飲食禁止の場所ながら、焼き餅、山菜の漬物、お茶の接待を受けた。
格子の窓から差し込む柔らかな日と囲炉裏の煙の光景は、この季節この時間ならではのものということであった。
蔵本であったこの家の主人を中心とした習わし、島崎藤村の初恋相手の家であったこと、宮家用の部屋、密談用の隠し部屋等の説明を受け、山間の歴史を知った。
続いて町並みを西進、火災に遭わず江戸時代の家屋を多く残す地区、「寺下」へ向かう。
地区の始まりにスケッチする人がいた。
雪国町屋建築の続く町並みに、突如、洋風永久建築がそびえる…発電所である。雪解けの豊富な水量を利用した発電、この辺りには多数存在する。
バスに乗ろうと思いきや、今日は朝昼晩一本ずつしかなく、蘭(あららぎ)川沿いを下って歩くこととした。
磨耗した巨大な岩がごろごろしており、水の豊富さを改めて感じながら、南木曽の地をあとにした。
(関連記事:馬籠宿 桃介橋 読書の木のたてもの)
博物館となっている、国指定文化財の脇本陣跡の建物に入る。
囲炉裏が焚かれており、普段は飲食禁止の場所ながら、焼き餅、山菜の漬物、お茶の接待を受けた。
格子の窓から差し込む柔らかな日と囲炉裏の煙の光景は、この季節この時間ならではのものということであった。
蔵本であったこの家の主人を中心とした習わし、島崎藤村の初恋相手の家であったこと、宮家用の部屋、密談用の隠し部屋等の説明を受け、山間の歴史を知った。
続いて町並みを西進、火災に遭わず江戸時代の家屋を多く残す地区、「寺下」へ向かう。
地区の始まりにスケッチする人がいた。
雪国町屋建築の続く町並みに、突如、洋風永久建築がそびえる…発電所である。雪解けの豊富な水量を利用した発電、この辺りには多数存在する。
バスに乗ろうと思いきや、今日は朝昼晩一本ずつしかなく、蘭(あららぎ)川沿いを下って歩くこととした。
磨耗した巨大な岩がごろごろしており、水の豊富さを改めて感じながら、南木曽の地をあとにした。
(関連記事:馬籠宿 桃介橋 読書の木のたてもの)
昨年の地球博に関連して、様々な催しがあった。
公共交通等を利用して、二酸化炭素排出を抑えるというもの。
もう一つは、ユーカリの木を植えることによって二酸化炭素を吸収するというもの。
これらに参加した方々も多かっただろう。
日頃から徒歩、自転車、電車しか使わないことに決めている私にとって、さほど変化のない行動であったが、登録し、レポートすることによって今週までに合わせて二種類の“証書”が送られてきた。
去年は、親類が半世紀以上も前に、環境に取り組んでいた事実がネット上でわかり、意識が高まった年であった。
今年も、もっと環境のために進められることがあったら、参加していきたい。
公共交通等を利用して、二酸化炭素排出を抑えるというもの。
もう一つは、ユーカリの木を植えることによって二酸化炭素を吸収するというもの。
これらに参加した方々も多かっただろう。
日頃から徒歩、自転車、電車しか使わないことに決めている私にとって、さほど変化のない行動であったが、登録し、レポートすることによって今週までに合わせて二種類の“証書”が送られてきた。
去年は、親類が半世紀以上も前に、環境に取り組んでいた事実がネット上でわかり、意識が高まった年であった。
今年も、もっと環境のために進められることがあったら、参加していきたい。
古墳時代中期以降(5世紀以後)の権力者の古墳からは、稀に犬の埴輪が見つかることがある。
葬送儀礼として供献されたというのが、一般的な説である。
犬埴輪の中には、首輪を模ったものもあり、飼い犬としてあったことが理解できる。
(写真は、奈良県四条古墳出土、橿原考古学研究所蔵)
葬送儀礼として供献されたというのが、一般的な説である。
犬埴輪の中には、首輪を模ったものもあり、飼い犬としてあったことが理解できる。
(写真は、奈良県四条古墳出土、橿原考古学研究所蔵)