(東京都江東区森下)
両国の南、深川神明宮の門前町であるこの地は、懐かしい感じのするまちである。田河水泡が隣接する墨田立川で生まれたこともあり、「のらくろ」が至るところにあしらわれている。戦後は一時ドヤ街を呈したというが、現在は生活感のある雰囲気が漂っている。
(富山県中新川郡立山町 2000年7月14日)
黒部平から索道で2315mの大観峰へと向かう。猫の額のようなこの場所からは、赤沢岳、スバリ岳、針ノ木岳等の後立山連峰と黒部湖が望められる。
7月でも残る雪
(東京都墨田区両国・横網)
江戸時代前期まで隅田川は武蔵国と下総国の境であったため、そこに架かる大橋を両国橋と呼んだ。そこから双方の橋の袂の付近を両国と呼ぶようになり、現在は墨田区側のみ残る地名となった。
明治42年から昭和19年まで国技館が存在した、明暦の大火死者の供養が始まりの浄土宗諸宗山回向院
小松川と小林一茶旧居跡
(富山県中新川郡立山町 中部山岳国立公園 2000年7月14日)
くろよん堰堤を抜け、地下駅からケーブルカーで1828mの黒部平へ向かう。平とはいえ狭い場所であるが、立山大観峰と眼下には黒部湖が望められる。
(愛知県宝飯郡一宮町大木字山ノ奥 1998年6月20日)
過去、1990年12月22日、1992年9月6日に訪れているが、今回は都市計画道山ノ奥樽井線築造に伴う発掘調査が行われたため改めて訪れ、検出された弥生時代後期の遺構を見学した。
(関連記事:山ノ奥遺跡平成十一年)
(愛知県豊橋市賀茂町・宝飯郡一宮町金沢 1998年5月31日)
梅雨入り前の乾いた薫風が吹き、辺りは田植えの準備が進む中、ふと標高96mの照山(大照山)に目を向けると、山腹の周囲が伐採され道路ができているようであった。西側部分で行われている採石が、いよいよ頂きに達するのか。照山の由来は、大照山と隣の小照山の間を通る逢坂で昔、火の玉を度々見かけたことからそう呼ばれることになったという。大照山斜面には、地区の墓地が存在するため、土葬時代にリンが燃えたことによる火を目撃したか、或いは金沢の地名由来である沢、この照山を源とする黄金沢が、雲母を含む地質に水が流れることにより、輝きを放つためにこう呼ばれるようになったとも考えられる。
牟呂用水と水田、そして照山
2016年横浜海岸付近(みなとみらい・日本大通り・象の鼻・元町・山下公園)の光景。
(関連記事:横浜みなと MM21’09 日本大通り 象の鼻 横浜構造物 平成二十四年 山下埠頭 横浜みなと 平成二十六年 MM21 '15 横浜 平成二十六年師走 横浜 平成二十七年)
(よろいづつみ 愛知県豊橋市賀茂町 1998年5月31日)
豊川(とよがわ)の左岸に旧堤防と新堤防が重複している区間がある。新堤防は東名高速道路が築造された際に整備されたものであるが、旧堤防は豊川両岸に存在する鎧堤(霞堤)という江戸時代以前に築かれた、随所に上流向きの切れ目を入れることで決壊を防ぐ、排水を容易にした構造の堤防の一部である。
(横浜市青葉区青葉台)
横浜ながら田園都市線沿線のため「横浜都民」の街ともいわれる青葉台は、東急の開発により誕生した街である。元々は都筑郡恩田村であり、田奈村恩田を経て、昭和14年(1939)横浜市編入の際港北区恩田町となり、田園都市線青葉台駅開業を機に恩田から青葉台が分離し、港北区から緑区に分区、青葉区に分区を経て現在に至っている。男性長寿日本一、女性も七位になった地域であり、均等に幅広い層の住民が暮らしている。
(わるさわ 愛知県宝飯郡一宮町東上字日影 1998年5月5日)
豊川水系松本川の支流である。昭和55年(1980)に施工された砂防工事により、護岸、河床共にコンクリート被覆されたが、川名から想像できるように過去に災害をもたらした川であり、また土石流危険渓流に指定されている。
(東京都世田谷区宮坂 旧郷社)
日も落ちたこの日、東急世田谷線宮の坂駅そばに鎮座する世田谷八幡宮を訪れた。社伝によると寛治五年(1091)奥州後三年の役の帰途、源義家がこの地で豪雨に遭い、天気回復まで滞在することになった。そのとき、今回の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護に依るものと思い、豊前宇佐八幡より分霊をこの地に勧請したのが始まりという。また、世田谷城主吉良頼貞、頼康が崇敬し、社殿を造営。八幡大神を崇敬する徳川氏も代々社領を寄進している。旧郷社時代には一時宇佐神社と称したが、戦後は世田谷の社名に復している。境内には江戸時代から行われているという奉納相撲の土俵がある。
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(愛知県宝飯郡一宮町東上字日影 1998年5月5日)
人は生まれながらにして、体内に「三尸(さんし)の虫」というものを持っており、それが六十日を周期として天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため、病気になったり、寿命を縮めたりするといわれている。それを防ぐため、その日には、三尸の虫が昇天しないよう徹夜で「守庚申」をし、合わせて健康長寿を祈念する信仰遊戯が行われ始め、また自らの過ちの懺悔も行うようになった。八世紀の道教伝来よりの行事である。
江戸時代中期、常光寺境内に造立された炭焼庚申塔は、悪疫を調伏するといわれる青面金剛が彫られ、足元には青面金剛の神使とされる三猿像があり、見ざる、聞かざる、言わざる の謹慎態度を示すためとされている。