(東京都世田谷区経堂)
小田急線で栄える経堂を歩く。比較的区画整理された街並みは、住みやすさを感じる。経堂の地名の由来は、松原弥右衛門という帰化人医師が、自らの屋敷内に現在経堂駅前にある福昌寺を創建し、弥右衛門が所蔵する医学書を村人が経本と勘違いして、屋敷を「経堂」と呼んだ。や、経典を納めた石室の上に小堂が建てられ、それを「経堂」と呼んだ。また、かつては経堂在家村といい、寺を創建した松原弥右衛門が俗人であったために、「在家」の名が付いた等がある。
(東京都世田谷区世田谷)
旧来の世田谷の雰囲気を残すこの辺り。普段は閑散とした通りも師走・新年の四日間は人々でごった返す。彦根藩井伊家の領地であった付近二十村(荏原郡世田谷村、宇奈根村、小山村(尾山台)、上野毛村、下野毛村、新町村、瀬田村、太子堂村、弦巻村、野良田村(中町)、八幡山村、馬引沢村(上馬・下馬・野沢=駒沢)、用賀村、多摩郡和泉村、岩戸村、大蔵村、緒方村、岡本村、鎌田村、横根村)は、吉良氏臣であった大場家が代官を務めた。代官屋敷前のボロ市通りで開かれるボロ市は、天正六年(1578)北条氏政により奨励された楽市に始まる。毎月一と六のつく日に開かれ、豊臣秀吉の小田原征伐まで続いた。その後は農耕具、古着市、正月用品を売る歳の市として十二月十五日に開かれるようになり、明治以降は十二月十五日、十六日、一月十五日、十六日の四日間となった。
(愛知県豊川市国府町的場)
末期の三河国府推定地ともされる(あるいは白鳥台地国府の城下町)一角に守公神社がある。その境内に板書きで日時計とある傍に、中央に穴の開いた石が置かれている。建造物の礎石のようにも見えるが、穴が小さく本当に日時計として使われたのかもしれない。
(愛知県蒲郡市相楽町 1998年9月5日)
蒲郡市と御津町の境、相楽(さがら)を訪れる。御堂山の東麓に広がるこの地は、明治9年(1876)に合併して相楽村が誕生するまでは、丹野村(中世は多野村)と山神村であった。付近は平地が少なく、その傾斜を利用して蜜柑が多く栽培されている。
旧多福院地蔵と十王仏 寛永九年造立
兎上(とがみ)神社に熊野神社と八幡神社を合祀して成立した相楽神社 写真は旧拝殿
墳丘に楠が生え稲荷祠のある平林古墳(円墳 直径13m 横穴式石室)
(関連記事:相楽山へ 御堂山全福寺跡 荒井古墳 相楽から三河湾を望む)
(東京都新宿区歌舞伎町)
碁盤の目に整理された新宿の靖国通りから斜めに弧を画く歩道がある。ここには昭和45年(1970)まで使用されていた都電13系統(新宿-水天宮前)の回送用の線路があった。昭和49年(1974)跡地を新宿遊歩道公園として整備し、都会の小さなオアシスが造られた。
(長野県飯田市追手町 2000年8月19日)
飯田線伊那路号で北へ向かう。天竜川に沿い始めると、乗り堪えのある感じとなってくる。それは三信鉄道時代そのままの紆余曲折を繰り返し、天竜の流れと共に登竜するからである。そして二度目の伊那都飯田に到着した。飯田城二の丸であったところには、飯田市美術博物館が建てられ、丘陵上であることから、対岸の松川や鼎(かなえ)、赤石方面が望められる。美術博物館は基本設定を「伊那谷の自然と文化」とし、常設展示を「豊かな伊那谷の自然とその生いたち」と「伊那谷の風土とそこに生きる人々」としている。特別展示は、開館10周年記念として脊椎動物化石研究者、長谷川善和氏のコレクションから「ゾウ化石の発掘から復元まで」と、人形美術家、川本喜八郎展が催されていた。川本喜八郎展では三国志と平家物語の人形劇用人形を主に展示していたが、飯田周辺が江戸時代中期以降、人形浄瑠璃が盛んになったこと、また同氏が飯田市で開催される人形劇カーニバル飯田に関わったこと等を理由に同氏記念館を市内に建設する計画があるようだった。本丸跡には美術博物館分館として柳田國男館と、日夏耿之介(ひなつこうのすけ)記念館がある。民俗学の盛んな信州地方において、飯田藩士柳田家に養嗣子としての経緯等から、所縁の地として東京世田谷喜多見から國男の書斎「喜談書屋」を移築し、資料等を開放している。これは、没後の理想の姿であると思う。また、柳田國男記念伊那民俗学研究所が開設され、活動も始められている。隣接して建つ日夏耿之介記念館は、飯田出身の近代文学者であり、建物と共に作品、遺愛品が展示されている。これら文化施設をみて、伊那地方の中核地らしい部分を感じることができた。
(東京都東久留米市滝山町)
東久留米市は東京都北端の都市の一つであり、高度成長時代に団地が多く造られた。小平市に接する滝山地区もその一つであり、多摩26市で1位の多摩市に次ぐ2割超えの高齢化人口となって高齢者を多く見かける。訪れたときは西部地域センター前で奥三河花祭りが催され、ばちの舞、いちの舞、花の舞等が舞われているところであり、懐かしい「国境いの村」の情景が浮かんだ。
(こだいら 東京都小平市)
師走の武蔵野、文字通り平らなまちを訪れる。小平霊園に程近い西武新宿線小平駅を降りると、南側は商業地域であるが、北側は住宅地や農地が広がり、狭い路地が多くある。小金井街道、青梅街道等が通り、市東部の花小金井も小平市域で、沿道は愛知三河を思い起こさせるロードサイド店が目立つ。「花小金井」は近くの玉川上水の桜並木と小金井公園に因む。
小平駅北口
親水整備された玉川上水の分水、小川用水
(愛知県安城市東端町 市指定史跡 1998年7月25日)
安城市の南西、碧南市との境を流れる長田川左岸に位置する縄文時代晩期中葉の貝塚である。昭和26年(1951)と昭和53年(1978)に調査が行われ、縄文土器の他、平安時代から室町時代の灰釉陶器及び中世陶器と、アカニシ、アサリ、オキシジミ、ハイガイ、マガキ等の貝殻が出土している。
東端町から碧南市西端町を望む
かつて入江だった場所に育つ稲穂
(川崎市中原区等々力)
多摩川右岸に面積436,000m2の広い公園が存在する。陸上競技場、野球場、テニスコート、サッカー場、プール、とどろきアリーナ等の運動施設を備え、更には川崎市の歴史や美術を展示する市民ミュージアムがある。昭和16年(1941)に計画され、昭和36年(1961)に造成を開始、いまだに変化を遂げる総合都市公園である。
旧日本鋼管トーマス転炉
(#三遠南信 愛知県北設楽郡東栄町三輪/静岡県磐田郡佐久間町浦川字吉沢 1998年7月19日の日記から)
東栄に降り立つのは昭和56年以来3度目である。今回は中心部の本郷地区へは向かわずに、旧三輪村周辺を散策した。以前訪れたときは古い駅舎であった東栄駅も、「ふるさと文化交流館」として生まれ変わり、デザインも「花祭り」を強調したまちを印象づけるものとなっていた。往時は難所であった池場坂に通じる別所街道沿いには、「従是左本郷信濃道・従是右水久保遠山道」と刻まれた道標が立つ。「三輪」を西から東へ歩くと、やがて相川静愛橋を越え、愛知県から静岡県佐久間町旧吉沢村へと差し掛かった。相川上流の風土に暫く浸りながら、再び「三信三輪」へと戻り、帰路についた。
(関連記事:鷲の渕の滝 浦川出馬 三河川合 三輪平成二十五年)