保存整備事業を前提とした調査が進められていた。
(金堂跡)
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中島川を渡ると、辺りの様相が変わった。屋根の曲線、赤を基調とした色合い、中国の雰囲気が漂い始める。明治時代に入り、唐人屋敷、新地蔵所(唐人荷蔵)が廃止された際に、この場所に中華街が形成されたのが始まりという。
(Santo Domingo church 勝山町遺跡 長崎市勝山町)
平成13年、勝山小学校改築に伴う発掘調査によって、土杭、礎石、石畳、石組地下室、排水溝、井戸と共に、花十字紋瓦、十字架等が検出された。慶長十四年(1609)薩摩国高城郡京泊(鹿児島県薩摩川内市)からドミニコ会(説教者修道会)によって教会を移転し、この長崎に建てられた。然し、慶長十九年(1614)禁教令によって教会は取り壊された。その後、この地には長崎代官の末次平蔵が屋敷を構えたが、末次氏が密貿易により失脚した後は、高木氏が代官を務め、この地からはそのときの中国とオランダの貿易による遺物が見つかっている。
(石組地下室跡) (石畳跡) (排水溝跡)
(井戸跡)
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