(静岡県富士市比奈 2006年5月16日)
比奈地区には「かぐや姫伝説」がある。比奈という地名自体も「雛」「姫名」からとされ、赫夜姫、竹採塚、籠畑、見返り坂などの地名が伝わる。伝説は月に帰ってしまうかぐや姫ではなく、国司がかぐや姫を愛して共に暮らしたが、姫は自身の正体を富士山の仙女だと告白して富士山に登って忽然と消えてしまったというものである。そして、悲しんだ国司は池に身を投げ命を絶った。また、かぐや姫を育てた竹取の翁と嫗夫妻は、鷹と犬を可愛がり「愛鷹」と「犬飼」と呼ばれる祭神となったとされる。白隠が開創したという無量寿寺跡には「竹採塚」と呼ばれる塚があり、白隠が記した『無量寿禅寺草創記』には、ここはかぐや姫誕育の地と記している。当地に鎮座する瀧川神社は江戸時代以前「父宮」と呼ばれ、かぐや姫の養父の竹取翁を祀っていたためとされる。
瀧川神社
竹採塚
(愛知県愛西市渕高町)
日光川によって形成された微高地であるこの地は、かつて淵森と呼ばれた地名からも由来が想像できる。名鉄尾西線沿いには奈良時代の渕高廃寺があり、古くから人々の営みがあったところということが分かる。
(静岡県富士市原田 2006年5月16日)
天平勝宝元年(749)行基によって開創したと伝わる藤澤山妙善寺には、次の伝説がある。室町時代、常陸国真壁郡小栗庄に小栗判官満重という城主がいたが、足利持氏に攻められ東海道を西に逃れた。相模国で「照手姫」と人を喰うという馬「鬼鹿毛」を得た後、駿河国に至り妙善寺に照手姫を預けた。小栗判官は更に西に向かい、丹波国の母方の在所に鬼鹿毛を預け、紀伊国熊野に向かった。然し、鬼鹿毛は主人を慕い、丹波国から妙善寺まで戻ったが、そこで力尽き息絶えた。寺では、鬼鹿毛哀れみ、観音堂の下に葬ったのだという。また、江戸時代の臨済宗中興の祖であり、近隣沼津出身である白隠は妙善寺の板嶺周痩首座、梵忠和尚と親交があり、妙善寺に滞在したことがある。その際、観音堂に掲げた号額を書いたという。更に白隠七十八歳の時、妙善寺との書簡において、「この程滝川妙善寺に罷りあり候うち、京都の本屋小川源兵衛方より原宿松蔭寺迄『禅関策進』の再版二十巻参り候よしにて、滝川まで二通り持ちつかわされ申候。老夫も存じよらざる御事故、委細相たづね申候所に(中略)委細承知驚き入り、覚へず老涙を滴して、再三推しいただき、手の舞い足の踏む事も忘れ、歓喜いたし候。子細はこの書物の儀は、老僧若年の時、至極ありがたき霊験これあり、上もなき法恩に預かり、師匠とも父母とも守本尊とも、比類なき大切の書籍と存じ、行脚の内、片時も身を離さず大切に所持仕り候」とある。
(静岡県富士市原田2006年5月16日)
天平勝宝八年(756)行基が真言宗金輪院として開創したのが始まりと伝える。文明四年(1472)僧行之正順により曹洞宗に改められている。永正二年(1504)今川氏臣斎藤加賀守が七堂伽藍を造営し、六十四ヶ寺の末寺を有する寺院になったという。
(横浜市西区南幸)
昭和43年(1968)権田金属工業跡地に同社の賃貸ビルとして権田ビル(RC造10階地下2階)が築造され、3階から10階が日本住宅公団(2004-都市再生機構)南幸市街地住宅、1,2階がサンコー(1981-マルエツ)横浜西口店となった。昭和46年(1971)ダイエーの店舗となったことを機に西隣に7階の新館(第二権田ビル)を築造し、ビル面積は31,514m2となった。然し、階上の住宅が老朽化したことや、耐震性の問題から耐震補強及び建て替えの計画が浮上し、平成31年をもって二館共閉鎖され、年内に解体、4年後を目処に住宅棟と商業棟が築造される予定となっている。
(東京都渋谷区神宮前)
北参道から原宿に向かって歩いていると、周辺の建物と明らかに趣の違う建物が目に留まった。昭和39年(1964)に築造された、RC造8階地下2階、延床面積10,013m2,モダニズム建築の集合住宅である。竣工から半世紀が過ぎ建て替えの計画が出ているが、同時期に築造された多くの建物と違い、質、外観に拘りがあるため保存の声が上がっている。
(東京都江戸川区船堀)
船堀は寛永六年(1629)行徳塩田から塩を江戸に運ぶ水路、新川が開削されたことにより起こった地名である。昭和後期まで交通の不便な地域であったが、昭和58年(1983)都営地下鉄新宿線が開通して以降、江戸川区の新中心市街地として整備が進められ、平成11年には高さ115mの展望台を備えたタワーホールが完成し、荒川越に都心方面を望むことができる。
(静岡県富士市原田 2006年5月16日)
この場所には慶長年間既に大山祇命(おおやまずみのみこと)を祀る山神社があったとされ、昭和12年(1937)山神社と天神社、子の神社、社護神社、小田巻神社の五社を合祀して五社神社と改称されている。
(愛知県宝飯郡音羽町赤坂字関川 2006年5月16日)
東海道赤坂宿にある関川神社は、長保三年(1001)赤坂の長者である宮道長富が三河国司大江定基の命を受け、弁財天を祀る堂宇を建立したのが始まりとされる。明治維新の神仏判然令により関川神社と改称された。境内には松尾芭蕉が三十三歳のときに詠んだ「夏の月御油よりいてゝ赤坂や」の句碑がある。
(滋賀県湖東地方 2006年5月15日)
明治31年(1898)に彦根ー愛知川間が開業した近江鉄道は、当初から同名称を名乗っており、昭和6年(1931)米原ー貴生川間(47.7km)が全線開通した。沿線の愛荘町が西武グループ創業者堤康次郎出身であるため、昭和18年(1943)からは同グループ傘下となっている。開業当初から経営が厳しく、バブル崩壊以降は赤字続きとなっているが、米原から近江鉄道で貴生川、信楽高原鐵道、新線を経て、京田辺からJR片町線で大阪に至る「びわこ京阪奈線」構想があるが、実現は容易ではない。