(東京都豊島区上池袋)
昭和45年(1970)まで存在した地名である。大正7年(1917)以前は新田堀之内と呼ばれ、元禄年間以前は梶原堀之内村(北区王子)の飛地(新田)であった。堀之内の名称は梶原堀之内を継承したもので、室町時代に梶原氏がそこに館を構え、防御のため築かれた堀に由来するという。
(東京都豊島区上池袋)
文字通り池袋の上手に位置する上池袋には、住宅地に囲まれた子安稲荷神社が鎮座する。この神社には次のような説が伝わっている。徳川家康が東国に移封して間もない頃、この地を知行していた旗本斎藤惣左衞門が領内を視察しているとき、急に激しい雷雨に見舞われたという。斎藤氏が雨宿りをする場所もなく困っていると、森の中から白い髭の老人が手招きしているのが見えた。斎藤氏はその老人の方へ向かって行くと、森の中の古い社へ案内され雨を凌ぐことができた。老人に感謝をすると、老人は「私はこの里の稲荷の使いじゃ。今の社は朽ち果ててしまい誰も訪れない。汝が社を再建し神の尊厳を取り戻す協力をしてくれれば、領内の五穀豊穣を守り、火難などの災いからも守ってやろう」と告げ、そのまま森の中へ消えていったという。斎藤氏はその老人の言う通りに、この土地の産土神(うぶすながみ)として新しく社殿を建立し、自ら祭事を執り行い奉斎したという。また、子安稲荷の名の由来は、正徳五年(1715 )に疫病が流行した際、神社の霊験により多くの子どもたちが助かったため、「子安稲荷」と呼ばれるようになったとされる。
(しんうわごろも 愛知県豊田市司町 2001年11月24日)
昭和63年(1988)国鉄岡多線から第三セクター愛知環状鉄道に移行した際に開業した駅である。近隣に名鉄三河線上挙母駅があるため、「新」が冠に付けられている。
(愛知県豊田市 2001年11月24日)
以前訪れた際には一時工事が凍結されていた矢作川豊田大橋も開通していた。駅前からの道路も繋がり、橋を渡ると、橋と同じく黒川紀章設計、事業費300億超えの豊田スタジアムも完成していた。
(東京都北区西ヶ原)
王子の南、巣鴨の北、周囲よりやや起伏のある地、西ヶ原。原と言いつつも住宅等が隙間なく建ち混み、原っぱの面影はない。西ヶ原貝塚等、縄文時代中期からの人々の営みがみられ、長らく自然と人間との共存が行われてきたが、日光御成街道が整備されて以降、次第に開発が進み現在に至っている。
(東京都北区王子)
元亨二年(1322)豊島氏が紀伊熊野から分霊した若一王子(王子神社)を地名由来とする王子は、近世には日光御成街道沿いとして栄え、徳川吉宗によって飛鳥山が整備され景勝地となった。近代に入ると王子製紙が創業し、更に高崎線開通後は工業地帯となったが、第二次世界大戦による空襲で焼け野原となり、戦後は住宅地に生まれ変わった。現在、飛鳥山公園には北区飛鳥山博物館、渋沢栄一史料館、紙の博物館の他、D51蒸気機関車や都電6000形電車が静態保存されている。
音無親水公園
(静岡県磐田郡佐久間町浦川 2001年11月11日)
天竜川水系大千瀬川支流のこの川の辺を沿って歩いてみる。山間に彩りを見せる季節だけに、静の中に華やかさを見せていた。山の木々が映る水面。それを透して動く魚を見ていると、川に対しての思いを意識し始めた頃に戻った思いがした。
(東京都台東区上野公園 国指定重要文化財)
元和二年(1616)間もなく死を迎える徳川家康が藤堂高虎と僧天海に対し、自らの魂の鎮まる場所を建てて欲しいと遺言をし、それに従って寛永四年(1627)高虎の下屋敷内に創建されたのが始まりという。その後、慶安四年(1651)徳川家光が現存する社殿に建て替えている。
(関連記事:日光東照宮 滝山東照宮 日吉東照宮 東京上野 平成十九年 冬の不忍池 上野台 平成二十三年 摺鉢山古墳 彰義隊墓所 上野大仏)
(都電停留所跡 東京都台東区池之端)
通りを上野公園側に入ったところに都電の車両が置かれた場所がある。昭和46年(1971)まで、この場所には専用軌道を走る都電が通っていた。この区間には20系統(江戸橋―須田町)、37系統(三田―千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前―銀座七丁目)の三系統が走っていたが、廃止と共に池之端七軒町(池之端二丁目)停留所も廃止された。平成20年、都電停留場であったこの場所に、最後は荒川線で走っていた都電車両(7506:車体1984年製、足回り1962年製)を展示し、児童遊園として再生された。
(東京都港区六本木)
江戸時代前期に鳥居氏の屋敷があり、その屋敷の一部を道路とし坂を築造したため、鳥居坂と呼ばれるようになったとされる。この辺りは、江戸時代には多度津藩京極家の屋敷があり、近代以降は鳥居坂御料地、華族や財閥等実業家の屋敷が建ち並ぶ坂であったという。