(愛知県蒲郡市大塚町三月田 2002年10月6日)
御堂山の緩斜面に築造された横穴式石室を持つ終末期の円墳である。3基からなり、1号墳は滅失しているが、2号墳、3号墳は直径約14mであり、墳丘に外護列石を持つ。平成8年の発掘調査によって、金銅製耳環、土師器、須恵器が出土している。
(長野県諏訪市湖岸通り 2002年9月22日)
美術館かと思い入館したところは、片倉館という温泉入浴施設であった。昭和3年(1928)に完成した森山松之助設計によるRC造2階建塔屋付、延床面積1,310m2の洋風建築は、流行に取り残されることなく人々が多く訪れるところでもある。シルクエンペラーと呼ばれた片倉製糸社長、片倉兼太郎が欧州を参考に開設した保養施設である。
(神奈川県鎌倉市大町)
宇都宮は付近に御家人宇都宮氏の屋敷があったからとされ、また稲荷神社は宇都宮氏が創建したものと伝わる。辻子は小路を意味し、その小路に面して嘉禄元年(1225)鎌倉幕府の政庁をこの地に設けられ、嘉禎二年(1236)若宮大路に移るまで存在した。
(長野県諏訪市 2002年9月22日)
30余河川の水が集まった自然湖、諏訪湖は天竜川の水源でもある。標高759mの高さにあり、湖畔には間欠泉があって、定期的に高さ20mの温泉を吹き上げる。訪れたこの日はナチュラルモノトーンの光景が広がり、気温も9月とはいえ10度台という無国籍感を覚える環境であった。
(愛知県海部郡弥富町 2002年9月15日)
取り残された暗灰色の構造物。これは国鉄関西線をオーバーランしていた関西急行電鉄(1944-近畿日本鉄道)という路線の遺物であり、昭和34年(1959)木曽川鉄橋の架け換えによって使われなくなった高架の残骸である。上昇して行く高架橋は、木曽川に向けてのジャンプ台が如く切り取られている。
(東京都渋谷区神山町・富ヶ谷)
東急百貨店本店から代々木八幡駅までの街路沿い及び神山通りを「奥渋」或いは「裏渋」と呼ぶ。関東大震災直後に人が多く移り住み、住宅地となったという。最近人通りが増えたというこの辺りも、渋谷駅周辺と比べれば、圧倒的に人の往来は少ない。私がたまに漫ろ歩く渋谷「東」と同様に、元々の渋谷の姿なのかもしれない。
(名古屋鉄道揖斐線 2002年8月25日)
大正15年(1926)美濃電気軌道が導入した半鋼製の車両である。当初は形式をセミボ(セミスチール・ボギー)と称したが、昭和5年(1930)名岐鉄道(1935-名古屋鉄道)合併以降は「モ」となった。戦後は細かな改修を繰り返し、併用軌道と専用軌道を相互に乗り入れる岐阜市内線、美濃町線、揖斐線の主力として活躍した。
(長野県諏訪郡下諏訪町青塚 県指定史跡 2002年8月15日)
後期古墳である青塚古墳は、全長67m,高さ8mの前方後円墳で、両袖式の横穴式石室が露出している。外部施設として埴輪を有しており、墳丘には諏訪大社秋宮の末社青塚社がある。
(東京都新宿区南元町)
信濃町の地名は信濃守であった大名永井尚政の下屋敷があったことに因み、千日坂は、尚政の父、尚勝が創建した浄土宗永固山一行院千日寺が、千日毎に永井家の供養を行ったためとされる。故に付近を千日谷と呼ぶという。
(愛知県犬山市・岐阜県各務原市 2002年8月14日)
先年完成した木曽川犬山橋の道路橋により、昭和元年(1926)完成の犬山橋は鉄道橋専用となった。犬山橋は、併用橋として名古屋鉄道参画のもと、犬山町と鵜沼村との三者で築造された、全長223m,幅16mのトラス橋である。
(東京都千代田区紀尾井町)
寛永十七年(1640)江戸城外濠築造の際、四谷見附から喰違見附の外濠は信濃松代藩主真田信之によって普請されたため、本来は四谷濠であるが真田濠とも呼ばれる。第二次世界大戦後は空襲で発生した瓦礫の処分場所となり、それを隣接する上智大学が整備して東京都から借り受け、同大学のグラウンドとして利用されている。真田濠南端の喰違見附は外郭門の一つであり、甲州流軍学の創始者小幡景憲によって設計された、石垣を使わない虎口(こぐち)である。