私が子供の頃、よく探索した辺りでもある。
祭神は金山比古神(カナヤマヒコノカミ)及び金山比売神(カナヤマヒメノカミ)
両神は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が火神軻遇突智(ヒノカミカグツチ)を生んだ際、下腹部に大火傷をしたのを、治療看護した神とされており、お産、下半身の神とされる。また、金物鍛治神ともされている。
境内は、中世の鍛治遺跡ともなっており、鉱滓(溶かした金属から発生する様々なカス)が出土する。
武田軍、織田徳川軍が戦った三方原の北方、今は浜松のテクノエリアとして開けた都田(みやこだ)地区。
その一角、都田川南方の台地、中津郷ヶ平には、前方後円墳の古墳が残る。
とはいえ、全長25m、高さ2.5m程の小さなものである。
この辺りには、8基の古墳が群集していた。
耕地造成や介護施設建設などで1基以外は滅失してしまったが、その際、人物埴輪が出土したという。それは 6世紀初め頃のものである。
辺りは、思いのほか緑が豊富で、鬱蒼とするところを多く見かけた。道路脇には、芋穴の痕跡が複数見られ、開墾によって開けた、この地の表情が窺える。
(写真中、土盛りは、道路と介護施設、民家に挟まれ唯一残された郷ヶ平4号前方後円墳)
(岐阜県可児市久々利)
大平から大萱の集落へと差し掛かる。
以前と変わらぬ景色、ただ、道路だけが整備されていた。然し実は、土岐から可児のこの辺りは“フェロシルト”が廃棄された地域でもある…。
山肌に建つ、陶芸家荒川豊蔵資料館を訪れた。
16年前は休館日であったが、今日は開館していた。
桃山時代の窯跡で発見した陶片の模様を見て創作に多大な影響を受けたという故豊蔵氏。美濃焼特色の幾何学模様の陶器が陳列され、私も影響され瀬戸・美濃系陶器に関心を持ち始めた頃を思い出した。
付近の「山村」を暫く歩いた後、可児市街へと向かった。
(1990年4月3日日記より)
豊蔵資料館が休みであった。
久々利川で春の空気に触れた後、川を下ってみることとした。
途中には崇神天皇皇子である八坂入彦命墳墓や八剣八幡神社、日本で初めてのロックフィル形式で造られたという小渕ダムがあり、また久々利の里まで下ると、可児郷土歴史館、久々利城、千村氏屋敷跡、景行天皇行在所のあった泳宮(くくりのみや)古跡があり、歴史の宝庫の道すがらであった。
(関連記事:大萱古窯跡 熊野古墳 身隠山古墳 明智長山城 八百津線跡 可児川化石株 坂祝から可児へ)
(五斗蒔街道 岐阜県土岐市泉町久尻)
土岐市街から市民バスに乗り、泉町久尻、旧五斗蒔の集落を通過する。
今から16年前、一度だけ通ったところである。そして、この辺りは、土岐と可児の間を桃山時代からの美濃焼の職人が通った道すがらでもある。
我が家に、ある陶芸家がこの辺りを撮影した写真がある。それは、昭和40年代と思われる光景であるが、今通ってみても、交通量が増えたのと、近くに高速道路ができたこと以外は、さほど変わっていないだろうと感じた。
今も複数の陶芸家が窯を構える陶芸村近くでマイクロバスを降り、付近を散策してみる。現在も造り続けられている窯の横で、既に廃窯となっているものが同居する。
懐かしい風景だが、廃れた光景、私好みの景色かもしれない。そして、近くの高根山という山に登り、3基の窯跡を踏査してみた。
ここから久々利大平へ向けて歩いてみることにした。
(関連記事:段尻巻・乙塚古墳 隠居山 清安寺古窯 大富館)
白河聖堂や函館聖堂を設計した、半田出身の河村伊蔵が設計し、ビサンチン様式採用の八角形鐘楼を持つ、面積177.7㎡の聖堂である。
1945年の豊橋空襲や三河地震の被害も受けなかった貴重なものである。
1984年、県指定文化財となった。
(1998年12月13日撮影)
一級河川とよがわ沿いの地、江島地内(旧宝飯郡鵜飼嶋村)に存在する、石が集められた塚である。鎌倉時代の弁天の跡というのだが、詳しいことは分かっていない。
このほか、隣りの集落の金沢(旧八名郡養父村)には、伝説を残す「おゆき弁天」が存在する。
彼岸=涅槃 此岸=娑婆
娑婆(シャバ)は迷いの世界、煩悩の世界 浮世
涅槃(ネハン)は悟りの世界、もしくは完成された人間の到達点
同意語に、般若心経の「波羅蜜多」ハラミタ=彼岸に至るがある。
(語源は、梵語(サンスクリット語)の「パーラミター」)
(時宗藤沢山無量光院清浄光寺 神奈川県藤沢市)
時宗開宗は、一遍遊行の際としている。
一遍三十六歳のとき、参篭していた熊野権現により念仏賦算(念仏が書かれたお札を配ること)の神宜啓示を受けて以来、誰彼の区別なく、どんな人間でも、南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できると説いた一遍智真は、争乱時代の武家の子であった故に、武家社会の疑問とその後の諸国行脚によって垣間見た仏教不信を抱いた。
神戸で最期を迎える直前、自ら教典と書物を燃やし、生涯寺を持たずに行脚した。この本山も、一遍遊行第四代の呑海が創始したものである。
一遍は、開宗し寺を持ち組織化することを望まなかった。何故、後の者たちは矛盾する一宗派を構えたのであろうか。
時宗の宗紋は折敷に三文字。
一遍の出自河野家の家紋が由来であり、その河野家も、大山祇(三島)神社の神紋と同様である。そして我が家の家紋も同家との縁により同じである。また、一遍智真の字により、「真」の付く時宗寺院が多い。私の名前もここから一文字付けられている。故に私は一遍の思想を無視することができないのである。
(神奈川県藤沢市 県指定史跡・名勝)
藤沢から江ノ電に乗る。然し、列車が接触事故を起こし、遅れての到着。駅を降り、片瀬海岸の方へと向かい、橋を渡る。湘南海岸に浮かぶ小島、江ノ島に上陸。そこには、日本三大弁天の江島神社がある。今日は春まつりとあって、大勢の人々で溢れていた。昭和34年(1959)日本初の屋外エスカレーターとして開設された当初は、珍しかったのであろう有料エスカーも、今となってはシラケムードながら、私を含め利用者が多くいた。展望灯台のある頂のサムエルコッキング苑には、植物園があり、また屋外芸能が催されていた。
灯台の下、大師堂を過ぎると、一遍上人の文字が見えた。真水に窮した際、島の水脈を一遍が発見したというものであった。何かしらの縁を感じた。
島の海岸にある洞窟岩屋仏に参詣した後、渡船に乗り、片瀬海岸へと戻った。
(関連記事:遊行寺 藤沢391街区 片瀬江の島平成二十六年)