flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

化野念仏寺

2023-09-30 00:00:00 | ほとけのいおり
(浄土宗華西山東漸院 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町)
 弘仁二年(811)空海によって五智山如来寺として開創されたと伝わる。付近は化野(あだしの)という地名が物語るように、儚い死生観を表す風葬の地であった。その後は多くの墓標が築かれたが、明治に至り付近の墓標を念仏寺に集め「西院の河原」として整然と並べられた。

























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一遍大山祇神社参詣記念宝篋印塔

2023-09-29 00:00:00 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県今治市大三島町宮浦 国指定重要文化財2013年7月25日)
 正応元年(1288)一遍智真が没する前年、河野氏由縁の大山祇神社を参詣している。その記念として奉納されたものと伝わる。

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嵯峨鳥居本

2023-09-28 00:00:00 | 街道・宿場町
(京都市右京区嵯峨鳥居本 嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区)
 愛宕街道、愛宕大権現白雲寺、後の愛宕神社の門前町として栄えた。













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今治高島屋前

2023-09-27 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-
(愛媛県今治市大正町 2013年7月25日)
 現在、今治バスセンターの停留所となっている場所の前の駐車場は、昭和59年(1984)まで高島屋が存在した。昭和49年(1974)瀬戸内運輸(せとうちバス)と高島屋の資本により、せとうち高島屋が開業し、間もなく今治高島屋と改称された。故にバスターミナルの名称も高島屋前とされ、今治市役所や今治銀座にも程近いことから賑わった。然しながら、市街地の大規模小売店では先ず高島屋が閉店し、平成11年(1999)ニチイ今治店、平成20年(2008)今治大丸、平成23年(2011)ダイエー(今治デパート)、大洋デパート跡のヴィサージュが閉店、今治商店街のアーケードの大半もシャッター街となり、かつての賑わいは大きく失われた。
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祇王寺

2023-09-26 00:00:00 | ほとけのいおり
(真言宗高松山往生院 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)
 法然の弟子良鎮によって往生庵として開山という。平家の家人江部時久の娘である祇王は、白拍子(歌舞)によって平清盛に寵愛されたが、若い仏御前にその座を奪われて追放された。祇王は妹の祇女、母の刀自と共にこの往生庵で尼となり、後に仏御前も加わって四人で余生を送った。その後、庵は次第に衰退し廃寺となり大覚寺預かりとなったが、明治28年(1895)京都府知事北垣国道の別荘を移築して本堂とし、大覚寺の塔頭として再興された。






















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今治魚行商

2023-09-25 00:00:00 | 民俗・伝承
(愛媛県今治市 2013年7月25日)
 人数は減ったが、変わらず見られる光景である。
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中院山荘跡

2023-09-24 00:00:00 | ほとけのいおり
(京都市右京区嵯峨二尊院門前北中院町)
 清涼寺から二尊院までの愛宕道沿いに、鎌倉幕府御家人宇都宮頼綱が出家して実信房蓮生と名乗り、営んだ中院山荘があった。蓮生は和歌の名手とされ藤原定家と親交があり、蓮生が定家に山荘の障子に貼る色紙を依頼して執筆したものが、後の小倉百人一首の原形とされる。
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今治新町商店街

2023-09-23 00:00:00 | ガレリア

(愛媛県今治市常盤町 2013年7月26日)
 今治港と今治銀座の間にある長さ190mの商店街である。明治時代に入り今治港が拡張されると共に形成された商店街であり、川岸端商店街(後の今治銀座)を経て中心市街地へと向かう通り道によって栄えた。然しながら人口減少と市街地空洞化、しまなみ海道開通による今治港発着の船便の減便廃止等により通行量が減り、衰退の一途を辿っている。

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豊臣秀頼首塚

2023-09-22 00:00:00 | いにしえびとの睡
(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)
 清涼寺境内に豊臣秀頼の首塚がある。秀頼は慶長二十年(1615)方広寺鐘銘事件を発端とする大坂の陣によって徳川勢に追い詰められ、秀頼は自刃した。釈迦堂(清涼寺本堂)は慶長七年(1602)豊臣秀頼により改築された縁により、昭和55年(1980)旧大坂城三の丸発掘調査によって発見された、介錯の跡のある首から上の遺骨が秀頼のものであることが断定されたことから、清涼寺に埋葬されることになった。
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キャスパ

2023-09-21 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(広島県福山市三之丸町 2013年7月24日)
 昭和51年(1976)鞆鉄道バスセンター跡地に福山駅前共同ビルとして築造された、RC造8階地下1階、延床面積26,050㎡の商業ビルである。昭和62年(1987)運営会社がトモテツセブンから核店舗のイズミに変わり、キャスパと改称された。然しながら、市街地空洞化により次第にテナントが減り、平成24年(2012)閉鎖に至った。(2019年解体)

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清涼寺嵯峨釈迦堂

2023-09-20 00:00:00 | ほとけのいおり
(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)
 嵯峨天皇第十二皇子である源融(みなもとのとおる)の山荘栖霞観(せいかかん)があったこの地は、源融が発願した阿弥陀三尊像により、棲霞寺として成立したのが始まりとされる。永延元年(987)東大寺の僧奝然(ちょうねん)とその弟子盛算によって華厳宗五台山清涼寺として開山し、釈迦堂が造立された。その後、融通念仏宗の道場となるが、享禄三年(1530)浄土宗に改宗されている。釈迦堂(本堂)は慶長七年(1602)豊臣秀頼により改築されたが、寛永十四年(1637)嵯峨大火によって焼失した。現存する釈迦堂(府有形)は、元禄十四年(1701)徳川綱吉の母桂昌院の発願と住友吉左衛門の援助によって再建されたものである。





























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落合坂

2023-09-19 00:00:00 | 街道・宿場町
(東京都港区麻布台)
 麻布通りから我善坊谷に下る坂である。一帯は再開発が予定されており、光景が変わることであろう。
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愛宕道門前六道

2023-09-18 00:00:00 | 街道・宿場町
(京都市右京区嵯峨大覚寺門前六道町)
 愛宕山及び愛宕神社に至る愛宕道の、大覚寺門前六道辻と二尊院の間の道程である。道標には、「東 すく あたこみち・南 ひたり あたこ道・すく きたの みき 三条 六条 ふしみ」と刻まれている。

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旧吉田苞竹記念会館

2023-09-17 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-
(東京都港区麻布台 2013年7月4日)
 昭和49年(1974)に開設された、書家吉田苞竹(ほうちく)(1890-1940)の記念館である。平成24年(2012)森ビルによる再開発計画により閉鎖された。
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神泉苑

2023-09-16 00:00:00 | ほとけのいおり
(京都市中京区門前町 国指定史跡)
 延暦十三年(794)に禁苑(宮中の庭園)として作庭されたのが始まりとされる。現在の法成就池は当初から存在した湖沼を利用したものとされ、現在より大規模なものであった。天長元年(824)干魃の際、淳和天皇の勅命により、空海が善女龍王を勧請し、雨乞いを行った。以後、真言宗の道場となり、貞観五年(863)疫病流行の際には、御霊会が行われている。その後は衰退と再興を繰り返し、慶長八年(1608)二条城築城の際に苑の敷地が取り込まれて縮小して、天明の大火では伽藍を焼失した。現存する伽藍の殆どは大火以後の再建である。





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