(岐阜県不破郡関ヶ原町山中 2007年4月24日)
山中集落の西の端には常盤御前墓所という場所がある。藤原呈子(九条院)雑仕女で、都一の美女と言われた常盤御前は、源義朝側室となり義経を産み、平治の乱で義朝が没すると平清盛の側室となった。常盤御前は侍女と共に義経を追いかけこの辺りで賊に襲われ、命を落としたのだという。亡骸は村人たちによって埋葬され、後に墓標と地蔵を建てたと伝えている。その他上野国前橋、武蔵国飯能、薩摩国鹿児島にも常盤の墓と称する碑がある。
(来迎院 京都市東山区清水)
清水寺の境外塔頭である経書堂は、清水坂と産寧坂の角にあり、本尊である厩戸王(うまやどのおう:聖徳太子)の開基と伝わる。経書堂の由来は、僧が経木に法華経を書き、死者に手向けたことによる。
(岐阜県不破郡関ヶ原町松尾 旧郷社 2007年4月24日)
天武天皇を祀る井上神社は、壬申の乱(672)の際、大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)と大友皇子(おおとものおうじ:後の弘文天皇)が神社崖下の藤古川(ふじこがわ)を境に戦い、勝利したことが由縁とされる。
(岐阜県揖斐郡揖斐川町清水 2007年4月10日)
明治44年(1911)旧清水村内の十二社(大字清水:神明社、高宮社、天満社、村社八幡神社・大字島:大鍬社、神明神社、郷社八幡神社・大字長良:白山神社、日吉神社・大字福島:お鍬社、萬神社、村社大将軍神社)を合祀し、清水(きよみず)神社となった。旧清水村八幡神社の宝物として、清水城主稲葉一鉄着用の素懸威鎧兜がある。
(京都市東山区大和大路東入茶屋町)

(大仏殿跡)
文禄四年(1595)豊臣秀吉により大仏殿として創建したのが始まりである。当初、南は三十三間堂までの境内を持ち、奈良の大仏より大きな大仏が安置されたが、地震により倒壊した。その後、善光寺の阿弥陀像を本尊とするも秀吉が病に伏せったため返還され、秀吉の没後子の秀頼が大仏を復興しようとするが、造立中の火災により断念された。慶長十七年(1612)に至りようやく完成した。然し、五十年後の寛文二年(1662)の地震で倒壊し、木造で再興されたが、寛政十年(1798)落雷により焼失した。その後、天保年間に上半身のみの大仏を造立したが、昭和48年(1973)火災で焼失している。境内には慶長十九年(1614)鋳造の「国家安康」の梵鐘(国重文)と、南東に大仏殿跡(国史跡)がある。


(大仏殿跡)

(岐阜県揖斐郡揖斐川町清水 2007年4月10日)
昭和3年(1928)美濃電気軌道(1930-名古屋鉄道)北方線清水(きよみず)駅として開業した。然しながら平成13年(2001)揖斐線黒野-本揖斐間廃止により廃業となった。
(京都市東山区大和大路正面茶屋町 旧別表官幣社)


慶長四年(1599)前年に没した豊臣秀吉を神格化して創建された社である。慶長二十年(1615)豊臣家が断絶すると徳川家康により廃絶されたが、明治八年(1875)明治天皇により再興された。



(関連記事:大阪豊國神社)
(京都市下京区稲荷町)
鴨川右岸、塩小路橋袂に鎮座するこの社は、伏見稲荷の末社として天暦二年(948)黒門通りに創建したのが始まりという。祭神の他、天智天皇、大友皇子木像を安置する。社名の由来は、伏見稲荷大祭の際、松明を焚いて神輿を迎えたことによると、江戸時代の都名所図会に記載されている。宝永八年(1711)現在地に遷座している。
