(愛知県豊川市正岡町胡麻田 2009年1月2日・3月4日)
元々牛久保町常盤通で「鈴木家具店」が営まれていたものを、その後株式会社化し、国道151号線(後の県道豊橋豊川線)沿いの商業出店ラッシュを機に、豊川放水路正岡橋の袂にSRC造5階、延床面積6,721m2の店舗を構えたものである。その後浜松店も出店したが、4フロアの売場方式や、販売方法の陳腐化等で本拠地である豊川店の業績が芳しくなくなり、次第にホーム用品やリビング用品にシフトするも、家具が足を引っ張る状態となったため閉鎖、解体された。
(川崎市高津区北見方)
第三京浜沿いに、よく見ると形状がポスト型をしている建物がある。昭和48年(1973)に築造された、RC造4階のメタボリズム様式の賃貸ビルである。「土台部」の1階は商業スペースで、2階の「脚部」を挟んで3階から4階は住居スペースとなっている。バブル期頃に住居スペースの改造を行い、窓の配置が変わっている。
(千葉県松戸市松戸)
寛永三年(1626)御嶽大権現として日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り創建したのが始まりという。徳川光圀が鷹狩りに訪れた際、境内の大銀杏に止まった白鳥へ鷹を放とうとしたところ、鷹は微動だにしなかった。憤慨した光圀公、弓で射ようとするも、弓手は動かなくなり弓も中心から折れてしまった。愕然とした光圀は、折れた弓矢を奉納し、神前に陳謝して帰ったと伝わる。神仏判然令後は松戸神社と改称され、松戸の総鎮守として信仰されている。また、訪れたこのときは、戸定邸の歴史館では、松戸神社の神楽殿の絵画と修復展が開催されていた。
(千葉県松戸市松戸 国指定重要文化財 名勝)
水戸藩最後の藩主である徳川昭武が、明治17年(1884)に築造した邸宅である。「戸定:とじょう」は地名であるが、この地には元々松戸城があり、外城(とじょう)を意味するという。松戸城は室町時代に千葉氏族原氏が居城し、永禄七年(1538)国府台合戦の際にはこの地に陣が敷かれている。その後は高城氏が居城し、天正十八年(1590)に廃城となった。昭和26年(1951)土地家屋が松戸市に寄贈され、歴史公園として開放されている。
(静岡県周智郡春野町宮川 2005年6月1日)
宝塚歌劇団の演出家で理事長であった、白井鐵造の記念館が建っていた。鐵造はこの春野町で生まれ、ドイツ語曲「再び白いライラックが咲いたら」を「すみれの花咲く頃…」として訳詞している。
(神奈川県鎌倉市雪ノ下)
文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠といい、以前は院の警備をしていたが、十八歳の時に、源渡(みなもとのわたる)の妻である袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ、源渡を殺そうとし、誤って袈裟御前を殺してしまった。 深く後悔して盛遠は僧となり、江ノ島の弁財天において三十七日の間、飲まず食わずで祈り続けたという。
(愛知県南設楽郡鳳来町長篠字向林・古渡 2005年7月27日)
平成7年、豊川水系大井川の付け替え工事中に発見された、中央構造線(地質境界の破砕帯)断層露頭である。斜めに走る断層の左上側の岩は領家変成帯(内帯:海洋プレートの沈み込む低温高圧で変成)、右下側は三波川変成帯(外帯:マグマの上昇で発生した高温低圧で変成)であり、断層の様子がよく分かる露頭である。
(川崎市川崎区宮本町 旧郷社)
社伝によると、天皇軍の戦勝を祈る社として武神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀ったのが始まりとされる。景行天皇が東国巡幸の際には社で賊難を避けたといい、欽明天皇は幣帛、七串を奉り、新たに経津主神(ふつぬしのかみ)、菊理媛神(くくりひめのかみ)を配祀し、戦勝とその後の親和協力を祈って、以後長く勅願所であったと伝える。平安時代末期にこの地を領した河崎基家が山王権現を勧請し、それまで「武甕槌宮」と称していた社名が「河崎山王社」「堀之内山王権現」と呼ばれるようになった。鎌倉時代には将軍家より社領七百石が寄進され、佐々木高綱が源頼朝の命を受けて社殿の造営をしたという。徳川家康江戸入府に際して天海僧正が巡見し、随神門、神馬等の寄進をしたという。明治維新の神仏判然令により現社名となっている。
千年銀杏
(愛知県新城市一鍬田 2005年8月31日)
むかしむかし、お碗を貸してください…とお願いすると、淵からお膳やお碗が現れたという伝説の残るこの淵。また、女に化身する竜の棲む伝説の淵。今は農業、上水道用水の取水口となっている。水面を覗くと、何か浮かび上がってくるかもと思えてくる。
(愛知県宝飯郡一宮町金沢字京田 2005年8月31日)
江戸時代に築造された近隣の溜池と違い、名前の通り昭和15年(1940)に築造された新しい溜池である。灌漑(かんがい:供給)面積は2ha,満水面積1.5m3,貯水量,2.0m3,堤高7.0m,堤長25mであったが、用水施設の拡充により次第に役割はなくなり、廃池となった。