(愛知県犬山市明治村 旧所在地:石川県金沢市仙石町 国登録有形文化財)
明治23年(1890)に築造された、木造平屋建、建築面積454m2の建物である。その後、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれ、昭和40年(1965)明治村に移築された。
(はせ 奈良県桜井市初瀬)
榛原(はいばら:宇陀市)まで奈良猿沢池からの伊勢本街道と重複し、青山(青越え)を経て伊勢街道六軒(三重県三雲町)に至る街道の起点の地である。長谷寺の門前町として栄え、往古は泊瀬(はつせ)と称した。初瀬川の両岸に沿うようにまちが形成され、南側の高所を近鉄大阪線が通る。昔話わらしべ長者の舞台の地であるため、町屋の軒先には、物語の書かれた暖簾が掛けられている。
(Sarita San Moise イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア市サンマルコ 世界文化遺産)
サリタ・サン・モイゼは、サン・マルコ・スクエアから、サン・モイゼ運河までの通りである。運河の橋の袂、サン・モイゼ広場にはバウアーロテルや、バロック建築のサン・モイゼ教会があり、ブランドショップが立ち並ぶ。
ホテルの部屋から見えるサン・モイゼ教会鐘楼
サン・モイゼ教会とバウアーロテル
(竹島ファンタジー館 愛知県蒲郡市竹島町)
私が生まれた場所の程近くながらも、訪れたことがなかった場所。一時閉鎖されていたことも、経営者が変わったことも知らなかった私である。然し、ディープなパラダイス施設として、一部に有名な場所でもあった。以前は単に、5000万個の貝殻を材料に竜宮をイメージした造形物がある場所というものであったが、リニューアルされてからは、キャラクターにストーリー性を持たせ、幼い子どもにも好まれるものとなっている。
(愛知県犬山市明治村 旧所在地:大阪市北区大工町)
明治30年(1897)に築造された、木造2階建、延床面積785m2の小学校の講堂である。1階は雨天体操場、周囲に「吹放ち」と呼ばれる庇(ひさし)がある。昭和4年(1929)同学校の改修に際し、府内南河内郡千早赤阪小学校に移築され、昭和45年(1970)に一旦解体。昭和51年(1976)明治村に移築復元された。
(上信電鉄 群馬県高崎市・甘楽町・富岡市・下仁田町)
八高線を降り、上信線に乗り込む。上信線は明治30年(1897)軽便規格(軌間762ミリ)である上野鉄道として、高崎ー下仁田間33.7kmが開業したのが始まりである。大正10年(1921)長野県の佐久鉄道(後の小海線)羽黒下まで延伸する計画を立て、上州から信州へということで、上信電気鉄道と改称した。大正13年(1924)1067ミリ改軌及び電化され、ほぼ現在の姿になっている。
除籍車両100系(旧西武451系)
テム6貨車
150形
佐野信号所列車交換
500形
(雁陣之城 奈良県大和郡山市 県指定史跡)
三十一年振りに郡山城を訪れる。その後復元された梅林門や向櫓、東櫓によって、光景が以前と変わっていた。また、将来的に天守台を開放するため、主郭の整備や石垣の修復が行われていた。
(歴史は郡山城昭和五十八年の記事を参照)
北西外堀
鰻堀池
主郭
松陰門跡
主郭竹林門跡
主郭跡に建つ柳澤神社
毘沙門郭
極楽橋跡
復元追手門
復元追手向櫓
天守台
鉄御門跡
蓮池(南東外堀)跡を通る近鉄橿原線
(Bauer L'Hotel イタリア国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア市サンマルコ)
サンマルコ港からサリタ・サン・モイゼ・ストリートを通り、S.モイゼ運河に突き当たるとこのホテルはある。ホテル史によると、ホテル経営者のフランチェスカ・ボルトロット・ポッサティが1940年当時、既に世界に知れ渡っていたベニス一 大きな当ホテルを祖父から引き継いだとき、当時のホテルをバウアー ロテルとバウアー イル パラッツォの二つに分けることを決めた。18世紀の建物を改修したバウアー ロテルは、二つのホテルの内、よりモダンでアールデコの内装に、都市の要素を融合させている。地元アーティストの手によるルベリやベヴィラックアの織物等に見られるデザインは、 ベネチアそのものであるとしている。
ヴェネツィア最大のカナル・グランデ運河を眺めながらの食事
サン・マルコ鐘楼から望むバウアーロテル
バウアーロテルから望むサン・マルコ鐘楼
今回は六年前に計画したものを、その後仕事が忙しくなったため断念し、今冬にガライベントのパーティで宿泊券をいただいたため、改めてツアーではない個人旅行に立て直したものである。当日は新幹線の品川で降り、そこから京急線・地下鉄浅草線・京成線経由で成田に向かうことにした。品川では平日の通勤時間帯ということもあって大変混雑し、乗り切れない客が多数あった。私もその一人であり、予定よりも遅れて成田に到着した。成田ではお約束の身分確認ゲートを通り、出発ロビーである第1ターミナル北ウイング4階に向かった。ここでは円からユーロに両替し、予め送っておいた荷物を受け取る。優先チェックイン・優先手荷物検査を受け、出国審査。遅れていた時間も、ここで挽回し、スカイチームデルタラウンジで搭乗時間を待った。飛行機はアリタリア‐イタリア航空ボーイング777‐200型で、出発の40分前から搭乗が始まる。乗り込むと、客室としては最も前に位置する「マニフィカクラス1L」という窓側の席であった。また、サルヴァトーレ・フェラガモのアメニティ入りポーチが付いており、これがこの後の旅行で大変役に立つことになる。出発時間の12:20から遅れること20分、ようやく動き出し、成田を飛び立った。イタリアの航空会社であるため当然のことながら、2名の日本人乗務員以外はイタリア人であり、案内もイタリア語優先である。安定高度に達し、間もなくしてアンティパスト、そしてランチが配られた。その後、朝鮮半島に差し掛かる頃、日除けが下ろされ消灯、仮眠態勢となった。私には狭いが、フルフラットになる座席は、長時間フライトには助かる。着陸地は日本とは時差‐7時間で、感覚よりも長く夜を迎えることになる。日本時間で日付が変わる頃、朝食が配られ、現地時間で20時過ぎ、ヴェネツィア・マルコ・ポーロ空港に着陸した。
前方は乗り込む飛行機
プリミティーヴォ・ディ・マンドゥリアDOPイル・プリミノという赤ワインと、リグーリアの海の幸のサラダ
ミートソースで仕上げたグリーンのラザーニャとサン・マルツァーノトマトとバジリコのパスタ
ソーセージとポテトを詰めた七面鳥の胸肉と野菜ソテー添え
朝鮮半島上空
パルマ産の生ハムとゴルゴンゾーラチーズ
日本は信用のある国か、ものの数秒で入国審査完了。空港からは、水上バスでサンマルコ港まで移動。当初は水上タクシーも考えたが、距離が短い割に120ユーロもかかるため、水上バスに変更。それでも15ユーロと安い運賃とは言えなかった。水上バス乗り場に向かうと、予定時間になってバスが来なかった。遅れて到着し、出発は10分だと言って船頭はどこかへ行ってしまった。乗り込む外国人たちが戸惑う中、出港。陸上の路線バスと同じで、あちこちを遠回りするのと、時間調整なのか、タクシーとの協定なのか、非常に低速で走行するときがあり、タクシーの3倍の時間を要した。サンマルコ港を上陸すると、夜遅い時間であるが、大勢の人でごった返していた。石畳と規則的な構造となっていない独特の通りを歩いて、汗をかきながらホテルに向かった。
関連記事:バウアーロテル サリタ・サン・モイゼ サン・マルコ・スクエア カステッロ アルセナーレ サンタ・マリア・デル・ジリオ教会 サンマルコ・カナルグランデ Gallerie dell'Accademia ドルソドゥーロ サンタ・クローチェ サン・ポーロ サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会 ドガーナ・ディ・マーレ サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 サン・バルナバ教会