(アルテピアッツァ美唄 北海道美唄市落合町栄町)
炭鉱繁栄時代の名残であるこの建物は、昭和25年(1950)栄小学校として建てられたものである。最盛期には、1200人を超える生徒が通っていた学舎も、昭和38年(1963)三井炭鉱の閉山と、昭和48年(1973)三菱炭鉱の閉山によって急速に衰退し、全校生徒60人をもって昭和56年(1981)東栄小学校に統合され、栄小学校は廃校となった。その東栄小学校も、生徒が20人となり、平成23年に閉校している。平成4年、芸術文化交流施設アルテピアッツァ美唄として栄小学校跡地が利用され、平成18年からは、非営利組織アルテピアッツァびばいが運営にあたっている。
旧校舎の一部は、栄幼稚園としても使われている
(横浜市港北区)
凡そ半世紀前に発案された、東京と横浜市内陸部を結ぶ路線計画である。確定した新規建設区間は、相鉄本線西谷駅付近から分岐し、JR東海道線横浜羽沢貨物駅付近を経て、新横浜駅、東急東横線日吉駅までである。2018年度末を目処に、相鉄、東急、JR線の直通運転が予定され、新横浜駅付近では地下建設工事が進められている。
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(すだち 茨城県稲敷市月出里)
稲敷市と牛久市の境に位置するこの地に差し掛かる。辺りは自治体境界ということもあってか土地や道路が未整備であり、思うように進路を定めるのが難しかった。然し、古代の官道が通っていたとされる地であり、また地名もアイヌ語由来という説がある。
(愛知県豊川市平井町)
写真はJR飯田線と名鉄本線の上り(豊橋方向)が合流する信号所(場)の扱い所(信号手がポイントを切り替える場所)の跡である。昭和2年(1927)豊川鉄道(後の飯田線)の路線に、愛知電気鉄道豊橋線(後の名鉄本線)が延伸し、路線共有をすることになった際に信号所が設置された。その後、昭和40年(1965)に通水する豊川放水路が掘削されることに伴い、それを越えるために高築堤化されることになり、東海道線、飯田線、名鉄線の路盤移設が行われた。この上り線信号所扱い所も移設後暫く使用されたが、放水路完成前の昭和38年(1963)飯田線小坂井駅に扱い所機能を統合し、平井信号所は廃止された。(名鉄線上では平井信号場は現存扱い)
この信号扱い所で信号手が作業していたことを、私の父が生前に、この場所を通過する際によく話していた。
(1989年7月24日の日記から)
大山祇神社を参拝の後、祖母の故郷、上浦の井口港から高速船で今治に戻った。将来、大三島対岸の生口島観音山腹に向けて架けられる橋を想像しながら、鼻栗瀬戸を通り、昨年開通したばかりの伯方・大島大橋を遠くに眺めながら、今治港を目指した。
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(函館線 北海道美唄市)
この日は四年半振りに美唄を訪れた。新千歳空港からスーパーカムイエアポートで美唄駅に降り立つ。美唄駅は明治24年(1891)北海道炭礦鉄道の駅として開業したのが始まりであり、明治39年(1906)国有化されている。大正3年(1914)から昭和47年(1972)まで、石狩石炭美唄軽便鉄道(後の三菱鉱業美唄鉄道線)が分岐していた。
(横浜市都筑区茅ケ崎)
訪れたとき、大雪の名残が見られ、南関東とは思えない光景が広がっていた。この城は、一説には治安年間(1021-23)多田氏が築城したのが始まりとされる。後に北条氏の縄張りとなり、臣下の座間氏が在城した。天正十八年(1590)の北条氏滅亡により廃城となっている。
(神奈川県三浦郡葉山町一色)
この日の宿泊地に差し掛かる。一色海岸は、CNN(アメリカ ケーブルニュースネットワーク)が選ぶ世界ベストビーチ100の65位になった海岸である。そして日没になり、特殊な領域へと足を踏み入れた。この日の夕食の素材は、葉山牛であった。
(根岸線 横浜市磯子区東町)
昭和39年(1964)根岸線、桜木町-磯子間開業により開設された駅であり、比較的新しい駅である。旅客は京浜東北線直通列車が停車し、この駅から本牧埠頭まで神奈川臨海鉄道が結ばれている。また、磯子方にはJX日鉱日石エネルギー根岸製油所があり、付近にはタキ車(タンク貨車)が多数みられる。
(江戸崎本道 茨城県稲敷市犬塚)
江戸崎から西方へ向かって歩いてみる。江戸崎城主土岐信濃守によって創建されたという鹿島神社の境内に、龍神と戦って敗れた犬を葬り犬塚と称する塚がある。これが地名の由来とされる。
(香川県坂出市 1989年7月21日)
墓参で今治に向かう途中、今までの宇高連絡船に代わって、昨年開通した本四備讃線で四国に渡った。昨年、開通して間もない瀬戸大橋をバスで渡ったが、今回は高松行きマリンライナー号から予讃線いしづち号に乗り換えるため、坂出駅に降り立った。このとき、土讃線南風号のエンジン故障のため、遅れが発生していた。
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