(岐阜県土岐市・瑞浪市)
今回はセラトピア土岐で開催される「美濃源氏フォーラム・古文書に見る千利休と古田織部」を聴講させていただくため、夕刻この地に降り立った。八年振りの土岐市と、十二年振りの瑞浪は以前とさほど変化はないようであったが、商業は幾分衰退しているように感じた。私が初めて東濃地方を訪れたのは平成二年のことであった。美濃焼が好きだった私は、織部や志野、黄瀬戸など奇抜なデザインの焼き物が焼かれた窯跡や、それに続く鄙びた職人の街道の光景を見て、心躍ったものである。
383系ホームライナー
土岐市駅のプラットホーム
瑞浪
土岐川龍門橋から
瑞浪駅
格下げ扱いとなった旧セントラルライナー313系8000番台
土岐商業のランドマーク三起屋も健在
諏訪公園
(地域関連記事:段尻巻古墳 乙塚古墳 隠居山 元屋敷古窯 清安寺古窯 窯ヶ根古窯 五斗蒔 大富館 瑞浪平成十五年)
(東京都世田谷区岡本)
多摩川によって形成された国分寺崖線に沿った瀬田と砧(きぬた)の間にある地区である。地名の由来は河岸段丘の袂(たもと)の地であるため岡本となったという説がある。崖線の下を流れる次大夫堀(六郷用水・丸子川)沿いの岡本公園内には民家園があり、旧長崎家主屋(旧世田谷区瀬田・江戸時代後期)、旧浦野家土蔵(旧世田谷区喜多見・江戸時代末期)等の建物が移築復元されている。また、岡本八幡神社を挟んで段丘上には三菱岩崎家が創設した貴重書を所蔵する静嘉堂文庫があり、同所には岩崎家の廟がある。この岡本付近は、東京とは思えないほど深い緑に包まれていた。
次大夫堀(六郷用水・丸子川)
民家園旧横尾家腕木門
岡本八幡神社
旧長崎家主屋
静嘉堂文庫
岩崎家廟
(愛知県新城市中宇利字麻布 市指定史跡 1991年4月28日)
昭和53年以来何度か訪れている三遠国境標高220mの山城である。当初は山の下刈りが行われておらず登城が難しかったが、次第に手入れされるようになり見晴らしのよい山となった。富岡の郷土史家本多氏によると、鎌倉時代末期築城とされ、一旦廃城の後、南北朝時代に改めて熊谷氏の宇利城の支城とされて、隣接する滝山とその付近に城を築いた。その後敵が攻め入り多数の戦死者を出した。それが「滝山くずれ」だということである。また、比丘尼の名の由来は、高い身分から出家した尼が城主ではなかったかという説があり、宇利城主熊谷氏は周辺に慈廣寺や城館の機能を合わせ持った慈眼寺等を創建している。
慈眼寺館跡・麻布池を望む
中宇利集落を望む
宇利城を望む
富岡・吉祥山を望む
本宮山を望む
以前からよく見かける枯松
(東急玉川線砧支線 東京都世田谷区)
玉川線玉川から多摩川沿いに砧(きぬた)まで2.2kmを結んでいた単線の軌道線である。大正13年(1924)に開業し、玉川線と共に昭和44年(1969)に廃止された。跡地の一部は遊歩道として整備されている。
(関連記事:路電世田谷)
(川崎市高津区溝口・久本)
南武線武蔵溝ノ口駅及び田園都市線溝の口駅東側は古くからの商業地である。近年は川崎の副都心の一つとして扱われる溝口。その中で大型小売店として最初に開業したのが、昭和28年(1953)開業の月賦百貨店の緑屋(1980-西武クレジット・1989-クレディセゾン)である。(RC造6階地下2階)昭和60年(1985)からは溝の口amsとなり、平成5年にクレディセゾンの不動産部門であるコンチェルトが運営する「プライム」となって雑居ビル化した。昇りのみエスカレーターが設置されているが、2.5階,3.5階,4.5階というように階段の踊り場に到着する構造になっているため、フロアに平面で直結させるエスカレーター本来の役割を満たしていない。
使われなくなった3.5階より上のエスカレーター
次は昭和40年(1965)第一高橋屋ビル(RC造4階、面積2,226m2)のキーテナントとして開業した、川崎のローカルスーパーのサンコー(横浜岡田屋(モアーズ)系)である。昭和45年(1970)にダイエー傘下となり、道を隔てて向かい側に衣料品等を扱う別館を開業した(現在溝口qiz)。昭和56年(1981)には関東地区のローカルスーパーであるマルエツに吸収合併されている。階上には家電のノジマが入居していたが、ノクティ(後述)開業により移転し、後にはダイソーが入居した。
続いて昭和41年(1966)高津中央病院隣にヨーカ堂が開業。食料品売場がなく、店舗が道を隔てて二つに分かれる等手狭であったため、昭和61年(1986)東芝玉川工場跡地に建設されたパークシティ溝ノ口内の「ショッピングタウン溝ノ口」(RC造3階地下1階、面積9,720m2)のキーテナントとして入店した。旧店舗は一時閉店の後、昭和63年(1988)ヨーカ堂のディスカウントストア、ザ・プライスに業態変更したが、平成12年に閉店し取り壊され、現在はマンションとなっている。
ヨーカ堂跡地
高度成長期最後に開業したのが、昭和45年(1970)開業の島崎ビル(RC造7階地下1階、面積7,845m2)のキーテナントである長崎屋である。長崎屋は当初食料品部門を持たなかったため、地下の食料品売場は東急ストアが担当していた。平成20年に業態を新しく親会社となったディスカウントストアの「ドン・キホーテ」に変更し、地下の食料品売場が撤退した。
長らく大規模店の新規出店がなかったが、平成9年、武蔵溝ノ口及び溝の口駅前の再開発整備により、第三セクター運営管理の「ノクティ」(溝口の俗称であるノクチに、まちのシティを合わせた造語)が開業(2棟SRC造10階・12階、地下1階・2階、面積41,140m2)し、丸井をキーテナントに各種専門店チェーンや公共施設が入居した。
(川崎市高津区久地・溝口・下作延)
昭和31年(1956)二級国道246号東京沼津線(厚木街道)昇格を機に、後にバイパスとなる津田山(七面山)丘陵の開削が始まった。暫定的に開通の後、切通しを拡張する形でバイパス化され、昭和57年(1982)までに付近の道路拡幅、立体交差が完了した。関東ではこのように築造した道路を切通しと呼ぶことがある。付近は久地西前田横穴墓等の古墳時代後期の横穴墓が多数あるため、当初開削された際には人骨が出土したという。
昭和54年と57年に竣工した津田山陸橋下の公園
(愛知県豊橋市嵩山町奈木 1991年4月14日踏査)
萬福寺古墳(奈木11号墳)の程近く、民家の敷地内に存在する後期古墳である。横穴式石室が開口しており、民家の農作物貯蔵庫となっているが、市史跡の萬福寺古墳の石室よりも内部の規模は大きい。
(東京都世田谷区瀬田)
世田谷の地名由来ともされる瀬田は、国分寺崖線(武蔵野台地多摩川河岸段丘)付近の地名で、先土器時代(3万年前)からの人々の営みを今に伝えている。また、多摩川を挟んで世田谷区と高津区・中原区に分かれて存在するのは瀬田のほか、宇奈根、野毛、等々力があり、荏原郡のそれぞれの村域であった。
用賀から下っていく大山道は、玉川台で旧道(北・慈眼寺坂)とこの新道(南・行善寺坂)に分かれ、旧道は二子玉川商店街へと繋がっている。
行善寺坂
永禄年間創建(当初は崖下)の行善寺
rise方面
行火要らずの行火坂
瀬田貝塚 付近は縄文早期から中期の遺跡
永禄元年創建の法徳寺
次大夫堀(六郷用水・丸子川)
(綱島街道 横浜市港北区日吉)
矢上川を境に川崎市中原区と接する地区である。明治22年(1889)に村内にある日吉権現(日吉本町)を基に名付けられ、それまでは橘樹郡小倉村、鹿島田村、北加瀬村、駒ヶ橋村、駒林村、南加瀬村、箕輪村、矢上村であった。大正14年(1925)旧住吉村の一部が日吉村に編入され、東京横浜電鉄開業後は沿線開発、慶應義塾大学開学等により日吉村が発展し、川崎市と横浜市との合併問題が起きたが、昭和14年(1939)日吉村は川崎市と横浜市に分割された。
(愛知県宝飯郡御津町赤根字天王 1991年4月10日)
4ヶ月前(1990年12月1日)に訪れた天王山古墳を再度踏査した。前方部とみられる方は完存しているが、後円部の方は果樹園(休耕地)を造成するため削られ、50cm~1m程の石室の石材と思われる側壁石、蓋石、羨道柱石等が現れていた。石室内は土砂で埋もれているようであるが、削られた際に内部を抜き取られた可能性があり、後円部墳頂も凹んでいる。また、周辺の果樹園及び果樹園跡からは7世紀前半と推定する、内側指撫で外側刷毛調整の須恵質埴輪片が散見できた。
後円部北東側石材
くびれ部から後円部
くびれ部から前方部
(綱島街道 川崎市中原区木月)
矢上川を境に横浜市港北区と接する地区である。元々は木月(きづき)郷と呼ばれる地域であったが、明治の大合併の際に好字を用い住吉村と称した。然し、大正14年(1925)住吉村が中原町と日吉村に分割された際に消滅。翌年の東京横浜電鉄元住吉駅開業によって「元住吉」と呼ばれるようになった。
ブレーメンの音楽隊
西口 モトスミ・ブレーメン通り
高架化後も車庫への地上線が残る
東口 オズ通り
矢上川
(阿知和古墳群牛下山古墳 愛知県岡崎市阿知和町於新造 1991年4月5日)
帆立貝式(前方部が小さい)の前方後円墳であり、全長42m,高さ3.5m,内部は粘土床である。出土する土師質埴輪から5世紀前半と推定される。近隣の謁播(あつわ)神社は、成務天皇年間(131-190)三河国造(くにのみやつこ:地方統治官職)であった知波夜命(ちはやのみこと)を祀る神社とされ、於新造古墳はその墳墓という。