(愛知県豊川市長草町美佐々木 1990年11月16日踏査)
念仏塚古墳群の程近く、雑木林の中に僅かな高まりがある。これが前方後円墳とされるミササギ古墳である。過去に調査されたことがなく、内部施設は不明であるが、地名の「美佐々木及びミササギ」が「御陵:みささぎ」を意味し、身分の高い埋葬者である可能性も考えられる。
(東京都世田谷区成城)
砧(きぬた)地域の北部、かつて砧村喜多見であったこの地に大正14年(1925)成城学園が開設され、喜多見から分離する形で地名も成城と改められた。昭和2年(1926)小田急線成城学園前駅開業後は、住宅地としても発展し、それまでの山林原野の地から大きく変貌した。
(もとかりやかいづか 愛知県刈谷市天王町 県指定史跡 1990年9月26日)
本刈谷神社周辺に広がる遺跡及び貝塚である。昭和44年(1969)市道築造に伴う発掘調査で縄文時代晩期前葉の土器や甕棺、骨角器、貝製品及びハイガイ(灰貝:二枚貝)の貝殻が出土した。出土した土器の押引文、波状文、平行線文等の文様から、西三河地方の編年指標として本刈谷式と位置付けられている。
(東京都世田谷区奥沢 区指定史跡)
天文年間(1532-)足利氏族吉良頼康によって世田谷城の支城として築かれ、城代として大平氏が守備した。吉良氏は北条氏のもと、家臣ではなく門客として扱われたが、天正十八年(1590)小田原征伐後は廃城となった。延宝六年(1678)に至り、僧珂碩(かせき)により、城郭の遺構の残る跡地に浄土宗九品山浄真寺が開創された。寺が俗に九品仏(くほんぶつ)と呼ばれるのは、上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という極楽往生の九つの階層を表す九躰の阿弥陀仏が存在するからである。
区有形 仁王門 寛政五年
都有形 釈迦如来坐像 寛文八年
区有形 三仏堂上品堂 元禄十一年
都有形 阿弥陀如来坐像 寛文八年
奥沢城土塁
阿育王塔 天保年間
(新城 愛知県新城市石田字万福 市指定史跡 1990年9月24日再訪)
天文元年(1532)大谷城(新城市上平井)から移った菅沼定継によって、豊川と幽玄川を天然の堀として利用し新たに築城したことから、「新城」と呼ばれる。(新城古城は江戸時代の新城城に対する便宜上の名称)現在は宅地となり遺構は残されていないが、大正2年(1913)までは土塁が残されていたという。定継は後に田峯城(設楽町田峰)へ移り、弟の定氏が城主となったが、永禄五年(1562)菅沼定盈(さだみつ)が城主の野田城を攻めた今川勢がこの新城にも攻め入り石田合戦が起きた。定氏は防戦し勝利したが、城を杉山村の端城(新城市杉山)に移し、新城は廃城された。
(よよぎ 東京都渋谷区代々木・千駄ヶ谷)
代々にわたる樅(もみ)の巨木があったことから「代々木」と呼ばれるようになったというこの地は、江戸時代には甲州街道沿いに武家屋敷が並び、現代は東京オリンピック選手村、予備校、専門学校等の印象がある地である。また、代々木駅に隣接して、テレビドラマ「傷だらけの天使」でエンジェルビルのペントハウスとしてロケに使われた代々木会館ビルが、長年にわたって再開発計画の持ち上がるなか健在である。
(愛知県岡崎市小針町神田 1990年9月23日踏査)
三菱公園の中に囲われた一角がある。二十四歳で薨御(こうぎょ)した大友皇子(弘文天皇)の墳墓だという言い伝えがある。天智天皇十年(672)天智天皇の崩御後、皇太子大友皇子が近江大津宮で政治を執ったが、天智天皇の弟大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)が吉野で挙兵し近江を攻め、大津宮は兵火により焼け落ち、大友皇子は敗れて自害したという。(壬申の乱)然し、近隣に鎮座する大友神社(岡崎市西大友町)の社伝によると、「大友皇子は自害したと言いふらして、密かに一族数名と三河に逃れ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友神社である。大友という村名もこれに起因する」とある。付近は14基の小針古墳群を形成していたが、明治時代の開墾により滅失し、この1号墳も前方部が失われた。直径17m,高さ4mの後円部からは円筒埴輪を確認することができる。
(赤城大明神 川崎市高津区溝口 旧村社)
大山街道沿いに鎮座する溝口宿の鎮守である。宝永五年(1709)銘の棟札より古い記録がないために創建時期は不明であるが、神仏習合の時代は毘沙門天と弁財天を祀っていたという。明治の神仏判然令によって赤城大明神から地名の溝口(みぞのくち)神社と改称し、伊勢神宮より天照大神を勧請している。
(愛知県西春日井郡師勝町旭・南屋敷 1990年9月21日踏査)
西春町高塚古墳を訪れた後、隣町師勝町を訪れ、役場で資料を得た後に開館間もない歴史民俗資料館を見学した。続いて同館の展示出土品にもあった能田旭古墳を訪れ、鎌倉時代に古墳の土を崩して野墓となった平らな跡地を見ると、弥生式土器や土師器、須恵器、灰釉陶器の他、円筒、朝顔、形象埴輪片も散見していた。能田旭古墳は帆立貝式(前方部が小さい)前方後円墳であり、全長43m,高さ5m,周濠を持ち、出土する埴輪により5世紀末に築造されたと推定される。
(ふたこ・みぞのくち 川崎市高津区二子・溝口)
大山街道(矢倉沢往還)の多摩川右岸側の宿場であったこの地は、往時の面影と現代が混在する地区である。辺りは古くからの人々の営みがあったが故に、道は狭く入り組んでいる。近代以降は交差する府中街道の往来や、南武線開通後は川崎方面からの人の流動が盛んになったが、田園都市線開通後は東京方面からの流れが増加し、高津区の中心地として栄えている。
二子の渡し跡入口
大山街道・府中街道道標
二ヶ領用水
(愛知県西春日井郡西春町鍜治ヶ一色字襟 1990年9月21日踏査)
この日は西春町企画課にて資料を入手したが、発掘調査報告書を企画課で編集発行というのは初めてであった。続いて社会教育課で今年発掘調査が行われた高塚古墳の情報を得て現地に向かった。高塚古墳は墳頂に須佐之男社が祀られ変形しているため形状が判然としないが、円墳と推定され、直径40m,高さ3.3m,二段築成であり造出(祭祀場所)を持つ。その他の外部施設として周濠、円筒、朝顔形埴輪の他、甲冑形、盾形等の形象埴輪がある。その埴輪から5世紀前半の築造と推定される。
(熊本市中央区二の丸)
昭和35年(1960)熊本城桜の馬場跡に築造された、RC造5階地下1階、延床面積9,109m2,及び16棟、総床面積22,736m2の庁舎であり、九州財務局、九州農政局、熊本国税局等8官署が入っていた旧合同庁舎である。老朽化及び耐震性の問題により、平成22年にA棟を、平成26年にはB棟を熊本駅南側の春日地区に築造し移転した。旧庁舎が熊本城復元整備計画区域内であることから、庁舎解体後は景観及び史実に沿った整備が行われる予定である。
(川崎市高津区諏訪 旧村社)
諏訪地区の地名由来となった諏訪神社は、犇めき合う住宅地の中に鎮座する。社伝では天正十八年(1590)諏訪頼久が多摩川沿いのこの地を開拓し、慶長年間に諏訪大社より建御名方神(たけみなかたのかみ)を分霊したのが始まりとされるが、頼久は寛永二十一年(1644)に出生した人物であり、また北条氏臣諏訪頼忠が小田原征伐後の天正十八年に武蔵国の一部を所領していることから、頼忠が創建したと推定するのが妥当であろうと考える。訪れたときは秋季祭礼が行われているときであり、神輿渡御が町内で行われて賑わいと活気をみせていた。
子ども神輿
地神塔