(石川県金沢市)
金沢の地二日目。
朝食を摂りながら、宿の人から先日の地震の状況等を聞いてみる。
金沢の街では、今回の地震より阪神淡路大震災のときの揺れのほうが、大きく感じたとのことであった。
このときは和食であったが、味のほうはやはり薄味。何かと西日本の影響が大きい地ながら、東京方面との交流も盛んなようである。
加賀金沢からすると、遠くに感じるところに、同じ県内の能登地方と、名古屋方面があるそうだ。交通の利便性の劣る縦軸は、人々の交流にも影響している。
宿を発ち、長町界隈を歩きながら、用水を北上。
近代建築である、玉川図書館を見ながら近江町市場へ向かい、金沢の台所の風情と地元の幸を味わったが、隣接した大手スーパーが撤退、解体中ということもあってか、人の流れも変化しているように思えた。
そして市媛神社、袋町界隈を漫ろ歩き、金沢から福井へと向かった。
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先日、一昨年の開館以来二度目の見学となった、三河国分尼寺跡に建つ「三河天平の里資料館」
その後の展示の増加と、私が今在籍している学校のレポート作成のこともあり、訪れることとした。
入館すると早速、ボランティアの方による説明を受けた。
中門再現の際に作製された、平瓦を実際に手に取って、その重さと大きさを実感する。国分尼寺の葺き替え瓦を焼いた「赤塚山古窯」等、国分尼寺と周辺遺跡の関わりの説明を受け、映像コーナーで記録映像を観覧した。
続いて、元高校教師をされていたボランティアの方に史跡公園内を案内していただき、館長さんから、付近の情報をお聞かせいただいた。
昭和63年から平成7年にかけて行われた発掘調査の際には、何度か見学したが、その後史跡公園として整備し、中門が再現されて、ほぼ完成となったこの保存整備事業、今後は隣接する三河国分寺跡の整備へシフトしていくようである。
赤塚山から三河国府跡までの、「歴史」を辿る一筋のライン。
中間にある二つの未整備史跡、郡衙と推定される伊知多神社と、多くの遺構を残す野口城跡を加えることによって、より完成形に近づくもの思われるが、今後の動向に期待したいものである。
(関連記事:三河国分寺塔跡発掘調査)
(愛知県豊橋市)
東三河地域の玄関、豊橋駅に隣接しながらも、時の移ろいがゆっくりとした一角。
2003年に豊橋西武が閉店し、更に時代が止まった感がある。
然しながら2004年度から、豊橋渥美都市計画事業の一つ、豊橋東口駅南土地区画整理事業が歩みは遅いながらも進んでおり、豊橋鉄道渥美線新豊橋駅の移転計画がある。
現在、東海道線ホームとJR貨物敷地の中間に新豊橋駅の移転準備工事が進められており、橋上駅化に向けて、2008年度中の完成を目指している。
旧渥美線跡地は道路として、駅前から水上ビル、花田跨線橋間までの既存道路の拡幅、及び再開発が2009年度を目処に予定されている。
(関連記事:新豊橋2007夏 豊橋2008年2月 新豊橋駅開業)
中村城跡を後にし、地区のことを詳しく尋ねるため、三芳公民館を訪れた。
そこで私が名乗ると、地区の学校に同姓の職員がいることをお教え頂いた。数軒しかない筈の私の姓、何か関係があるのだろうか。
タイムリミットまで、付近を散策することにした。
天井川(川床が上流からの土砂の堆積により、周辺平地より高くなった川)の大明神川に辿り付き、暫く堤防松並木を歩いた。
堤防を下り、両側の柱のみが立つ石鳥居に出合う。旧郷社宮内神社の一の鳥居のようである。そして白雉四年(653)創建の光明寺へ立ち寄る。
光明寺から今治街道を横切り、日切大師と呼ばれる弘福寺を訪れる。ここには乳房の付いた地蔵さんがあり、子育ての仏さまとして信仰されている。
「お日切さん」の楠の横を水路に沿って抜け、宮内神社へ。
近づくにつれ、沿道には寄進の名を刻んだ玉垣が多く現れ始める。いつも感心するのは、この地方は神仏に対してや、公共のものに対し、寄進する気持ちの高いこと。私もつくづく反省させられる。その中で私の姓と、知る名前を発見した。明治時代この地の医師の家で生まれ、我が一門に嫁いだ娘、嫁いだ後に故郷に寄進をしたようである。本殿の玉垣には、その娘の実家の当主の名があった。
宮内神社の創始は分からないが、延文四年(1359)の旱魃の際、神主藤原松麿によって雨乞いを行ったという。また、文安六年(1449)の棟札が残っている。
神社境内は藪椿の社叢となっていて、季節には華やかであろうことが想像できた。
時間に限りがあったため、ここで駅へ向かうこととなったが、改めて訪れることを決め、三芳の地を離れた。
石川県都金沢は、第二次世界大戦での空襲を受けていないため、近代建築の幾つかが残る。
(石川県庁本庁舎)
大正13年(1924)竣工のRC造、地上三階(一部四階)、建物面積2,866㎡の建築物である。平成15年(2003)県庁が市北部鞍月に移転し、県庁の役割は終わった。
(石川第四高等学校本館)
明治24年(1891)竣工の煉瓦造、二階建、建物面積2,049㎡の建物である。
昭和24年(1949)からは金沢大学理学部、金沢地方裁判所として使用され、昭和42年(1967)に石川県立郷土資料館、昭和61年(1986)には石川近代文学館として使用され、今に至っている。
(聖霊修道院聖堂)
昭和6年(1931)スイス人建築家、マックスヒンデルによってロマネスク様式の教会が設計された。
(金沢煙草製造所)
大正2年(1913)煉瓦造、二階建の回廊式建築物である。
昭和47年(1972)日本専売公社金沢工場が市南西部米泉町に移転、昭和54年(1979)金沢市立図書館として利用するのを機に、RC補強された。現在は市玉川図書館近世史料館として利用されている。
(関連記事:北国街道金沢 金沢城 尾山神社 金沢長町 北国街道金沢Ⅱ)
賤ヶ岳を下り、麓の集落、大音(おおと)を歩く。
天台宗護国寺として開創し、火災や兵火で荒廃、再興を繰り返した曹洞宗西光寺や、同じく天台宗として起こり、浄名寺から後に浄土真宗誓海寺と改められた寺院の東西塔跡等、名残をみることができる。
大音は製糸の里である。
「賤ヶ岳から流れる水で 糸をひきます琴糸の 音に名高い琴糸なれば 賤ヶ岳からなりひびく」と糸ひき唄が唄われ、その製糸に適した水を清水(しょうず)と呼び、地区を潤している。
更に東へと足を進めると、伊香津臣命(イカツオミノミコト)を祀る伊香具神社があり、摂社として天之押雲命(アメノオシクモネノミコト)を祀る一ノ宮神社がある。
更に東方、余呉川沿いには、白樫の古木を野神として祀られている。
このように大音地区は、古くからの歴史を多く秘めて今に伝えられているのである。
地区を流れる猿子川が、長沢の語源という説、或いは孫兵衛作村に通じる「長坂」が訛ったものとの説もあるようである。
長沢村は明治22年に桜井村(桜井町)長沢となり、昭和30年に今治市長沢となった。
字元瀬(がんぜ)には、須賀神社があり、旧長沢村の鎮守であった。この神社は明治6年に周辺三社を合祀するまで、楊(やなぎ)天皇社と称し、大宝元年(701)に出雲神を勧請したのが始まりといわれている。
神社が建てられる前、斉明天皇行幸の途中で、この辺りで休息されたという言い伝えから、斉明天皇も合わせて祀られた。
現在の長沢地区には道の駅「湯ノ浦温泉」と、今治小松自動車道のインターチェンジ(現時点では終点)が設けられ、今治の東の玄関口となっている。
好奇心旺盛な者なら思わず近寄ってしまうような風貌の山、医王山。
標高約100mのこの山の上部は、岩塊によって周囲の山との異様さをみせている。
東方に瀬戸内海燧灘、西側に世田山、南に永納山が控える旧越智郡、桑村郡境の海岸山地。辺りの山の殆どは、城砦として使われていた。
検出された遺構によって古代城郭と判断された国指定史跡、永納山城の一部とみられるこの医王山は、人々を近づけつつも間近には寄せ付けない、その絶壁や深い草木によって変わらない姿を今に残している。
この医王山は、古代から中世に至るまで、武士たちの砦として使われたのは間違いないであろう、その位置、形状、面持ちである。