(曹洞宗乳峯山慈廣寺 愛知県新城市中宇利字大幡)
遠州に抜ける道すがらにある慈廣寺は、文明十三年(1481)宇利城主熊谷重実によって、それまで大滝沢のほとりにあった真言宗大滝山慈廣寺を移転し、熊谷氏の菩提寺としたものである。宇利城の居館としても使われた、字岡の慈眼寺(廃寺)も同様の由緒と思われる。享禄二年(1529)松平清康が宇利城を攻めた際、慈廣寺も兵火により焼失し、間もなく再建されたが、延宝二年(1674)半原藩の領主安部氏により、現在地に寺を移転している。
28年前に訪れたときと比べると、簡素だった境内が一変し、本堂が建て替えられ、仏像のモニュメントや、蓮の鉢等が置かれていた。
「手をつないだケヤキの木」
(佐賀県西松浦郡有田町中の原 旧村社)
十二代景行天皇が、いわゆる土蜘蛛征伐の戦勝を祈願したのがこの場所という。その場所に、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀る八坂神社を勧請し、社殿を造営した。また、この地に現れた大蛇の退治伝説が残っている。文政十一年(1828)の町の大火により、神社も焼失したが、町の復興と共に再建された。有田の陶工達の休工日である六月一日に、厄払い神事「茅の輪くぐり」が行われる。
十二代景行天皇が、いわゆる土蜘蛛征伐の戦勝を祈願したのがこの場所という。その場所に、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀る八坂神社を勧請し、社殿を造営した。また、この地に現れた大蛇の退治伝説が残っている。文政十一年(1828)の町の大火により、神社も焼失したが、町の復興と共に再建された。有田の陶工達の休工日である六月一日に、厄払い神事「茅の輪くぐり」が行われる。
(愛知県豊橋市石巻西川町)
子どもの頃から父に連れられてよく訪れたところである。その際、私は父に「あの高い鉄塔に登ろうと思えば登れる?」と聞くと野性的な父は、「このくらいの高さは大したことはない」というのが訪れたときの決まり文句であった。
三河変電所は、昭和41年(1966)当時、中部電力最大の275キロボルトの変電設備を備えて開設された、第一次変電所である。
子どもの頃から父に連れられてよく訪れたところである。その際、私は父に「あの高い鉄塔に登ろうと思えば登れる?」と聞くと野性的な父は、「このくらいの高さは大したことはない」というのが訪れたときの決まり文句であった。
三河変電所は、昭和41年(1966)当時、中部電力最大の275キロボルトの変電設備を備えて開設された、第一次変電所である。
(フボー御嶽 沖縄県南城市知念字久高)
島の中ほど西側に、島内で最も聖地とされる場所がある。聖地とは御嶽(うたき)のことで、ここでは十二年に一度、イザイホーと呼ばれる祭事があり、島で生まれ育った三十歳から四十一歳までの女性が神女となるためにの儀式が行われる。女性は神人(かみんちゅ)、男性は海人(うみんちゅ)のならいにより、この御嶽は男子禁制の場所となっている。然し、後継者不足を理由に昭和53年(1978)を最後にイザイホーは行われていない。また、この場所ではフバワク(お祓い)と呼ばれる行事も行われる。
島の中ほど西側に、島内で最も聖地とされる場所がある。聖地とは御嶽(うたき)のことで、ここでは十二年に一度、イザイホーと呼ばれる祭事があり、島で生まれ育った三十歳から四十一歳までの女性が神女となるためにの儀式が行われる。女性は神人(かみんちゅ)、男性は海人(うみんちゅ)のならいにより、この御嶽は男子禁制の場所となっている。然し、後継者不足を理由に昭和53年(1978)を最後にイザイホーは行われていない。また、この場所ではフバワク(お祓い)と呼ばれる行事も行われる。
(浜松市中区鍛治町)
平成13年の閉店直後の状態と何ら変わっていなかった。平成17年に建物を解体、建て直し、大丸が進出するという話も白紙となったようである。バブル時代に140億円をかけ増築した部分と、デフレ時代に西武跡地に建ったザザシティの簡素な建物の差が、この地の状勢を現している。そのザザシティもパルコ進出が白紙となり、松菱同様に30億円を超える債務超過に陥っている。松菱、西武、丸井、ニチイと揃っていた、東国の香りのする黄金時代が懐かしい。
(関連記事:浜松松菱2006)
(愛知県豊川市一宮町野添)
中世以前は豊川の河岸段丘端を通っていたと推定される、旧吉田道(信濃往還・伊那街道)沿いに鎮座し、津守連(ツモリノムラジ:港守りの氏族)の祖先、多裳見宿禰(タモミノスクネ)を祀る神社である。平安時代の『三河国内神名帳』にみえる「正三位 津守大明神 坐宝飯郡」は、市内大崎町に鎮座する住吉神社と二分する伝承となっている。
中世以前は豊川の河岸段丘端を通っていたと推定される、旧吉田道(信濃往還・伊那街道)沿いに鎮座し、津守連(ツモリノムラジ:港守りの氏族)の祖先、多裳見宿禰(タモミノスクネ)を祀る神社である。平安時代の『三河国内神名帳』にみえる「正三位 津守大明神 坐宝飯郡」は、市内大崎町に鎮座する住吉神社と二分する伝承となっている。
(ヤグルガー 沖縄県南城市知念字久高)
琉球国生みの際、シラタルーとファガナシーの二神が五穀の入った壺を海から拾うため、禊ぎを行ったとされるのが、このヤグルガー(ガー:井戸)である。現在でも、神女が禊ぎとしてこの井戸を使用している。
琉球国生みの際、シラタルーとファガナシーの二神が五穀の入った壺を海から拾うため、禊ぎを行ったとされるのが、このヤグルガー(ガー:井戸)である。現在でも、神女が禊ぎとしてこの井戸を使用している。