(愛知県豊川市西島町杓取)
「お地蔵さん」は元々、大地の恵みを神格化したインドの神から釈迦の入滅後、五十六億七千万年の弥勒仏の下生(出現)までの無仏時代に衆生済度を受け持つ菩薩として誕生し、日本では奈良時代から信仰され始めた。西島地蔵は善光寺川沿いの盛り土の上にあり、周囲の田畑が整地される中、往時の面影を残す一角である。
(横浜市西区平沼)
昭和6年(1931)京浜電気鉄道(1948-京浜急行電気鉄道)開通時に開設された駅である。然し、昭和18年(1943)に休止され、翌年廃止された。老朽化した庇は取り払われたが、短いホーム及び高架は当時のままである。
(愛知県豊川市麻生田町当貝津 2000年1月9日・2月11日)
大橋遺跡に隣接する当貝津遺跡において、豊川大橋土地区画整理事業に伴う発掘調査が行われた。縄文時代晩期後半から弥生時代前期にかけての土坑及び土器棺墓7基、弥生時代中期後半の方形周溝墓1基と壺棺墓、古墳時代の石組、中世の溝、土坑が検出された。
(ほんもく 横浜市中区本牧元町・本牧大里町・本牧三之谷)
三渓園の東側は本牧のまちである。地域人口に反して鉄道が通っておらず、些か不便なところである。然しながら、江戸時代までは風待ちの岬として栄えたという。本牧の名の由来は、アイヌ語のポン(小さい)モイ(入江)が訛ったという説も存在するが、古代の朝廷直轄牧場を御牧(みまき)と呼ぶことから、武蔵国の本牧という捉え方もできる。
亀の子石
昔、漁師の網にかかった大亀は石となり、喉に効験がある石となった。この石神からたわしを借りて子どもの使う茶碗を洗うと、喘息が治るとされる。
路地の角にある道祖神
真言宗医王山多聞院
(名古屋市中区大須 2000年1月10日)
大須万松寺通りアーケードに面する曹洞宗亀嶽林萬松寺の境内奥に宝篋印塔がある。織田信長の父、信秀の供養塔である。信秀は永正年間に織田信定の子として勝幡城で生まれ、信定が存命の内に家督を継いだ。天文年間に入ると、今川氏豊の那古野城や松平広忠の安祥城を奪い、更には小豆坂の戦いで今川勢に勝利し東へと勢力を広げていった。然し、第二次小豆坂の戦いや第三次安祥城の戦いに敗れ、間もなくして信秀は末森城で最期を迎え、生前自らが創建した萬松寺に葬られた。また、信秀の菩提を弔うため、信長の弟である信行によって末森城近くに泉龍山桃巌寺が創建されている。戒名は萬松寺殿桃巌道見大禅定門である。
(横浜市中区本牧三之谷 国指定名勝 重要文化財)
本牧の住宅地の真ん中に、緑豊かな一角がある。18haに及ぶ敷地は、岐阜県厚見郡佐波村(1956-柳津町,2006-岐阜市)出身で富岡製糸場、後の横浜銀行等を経営した原富太郎によって、明治39年(1906)に私邸を公開し開園した庭園である。「三渓」は富太郎の号であるが、この地の地名「三之谷」を基に付けられたものという。元々この土地は富太郎の養祖父原善三郎によって明治初年に購入され、明治20年頃には別荘として利用していたという。その後、明治32年(1899)に善三郎が死去し、富太郎が引き継いで整備を進めた。昭和14年(1939)富太郎が死去し、昭和28年(1953)には財団法人三渓園保勝会設立と共に園内の大半が横浜市に寄贈された。園内は池泉回遊式日本庭園で、大池を囲むように幾つもの移築された古建築が点在している。
昭和63年相楽郡加茂から移築された 国重文 旧燈明寺本堂
宗徧流林洞会から寄贈された茶室 林洞庵
白川郷御母衣ダム築造で移築された国重文 旧矢箆原(やのはら)家住宅 江戸後期
国重文 旧東慶寺仏殿 寛永十一年
国重文 旧相楽郡加茂燈明寺三重塔 康正三年
関東大震災で倒壊した善三郎別荘 松風閣跡
開園当時眼下は海であったが、埋め立てによりコンビナートとなった
国重文 臨春閣(旧紀州徳川家別荘巌出御殿) 慶安二年
国重文 旧二条城聴秋閣 元和九年
国重文 旧伏見城月華殿 慶長八年
国重文 天授院(旧鎌倉心平寺地蔵堂)慶安四年
(金野古墳 愛知県宝飯郡御津町金野字西沢・藤久保 町指定史跡 2000年1月5日)
かつて12基の古墳群を形成していたが、現在は県道脇の7号墳を残すのみである。古墳時代後期の横穴式石室側壁の石材11個が残されている。
(東京都目黒区)
青葉台松見坂から大山街道(国道246号線厚木街道)を通り、大橋から池尻に入る。松見坂にはかつて道玄物見の松があり、そこからを松見坂と呼ぶようになったという。松見坂から山手通りを下ると大橋地区である。目黒川に架かる大山街道の大橋が由来であり、渡ると世田谷区池尻となる。かつては長閑だったであろう水辺も、今は東名に繋がる首都高の高架が辺りを暗くしている。
(#三遠南信 みさくぼ 静岡県磐田郡水窪町 2000年1月4日)
北遠州の山あい、塩の道(秋葉街道)の宿場である水窪を訪ねた。今まで、隣接する天龍村や佐久間町へは訪れているが、この地は通過するだけであった。佐久間ダム築造による飯田線の付け替えによって鉄道が通るようになり、他所に比べて過疎化の進行も緩やかなようだが、「国境いの村」という面持ちは失われずにあるようである。付近は「みさくぼ」というだけあって、水音のしないところはないほど清水が流れ出ていて、この辺りでは「井水」と称し、生活用水として使われている。また、山の斜面に貼り付くようにして昭和以前の民家が残されている。
塩の道大原地区
飯田線最長の大原トンネル
竜谷
押沢橋
ふれあい橋
水窪発電所送水管
飯田線水窪駅
水窪川と翁川の合流するところで土地の人と出会った。地頭方という集落に住んでいる人で、途中、急坂を一緒に上って行ったのだが、さすが土地柄、足腰は丈夫そうであった。「昨日も鹿を捕まえとったよ」と、自然の豊かさを語ってくれた。ただでさえ標高が高いのに、更に見上げるように民家が点在している。まるで、中世の城塞のようであった。
(関連記事:旧大嵐駅跡 夏焼トンネル 地頭方 高根城 水窪の崖崩れ 向市場遺跡 奥領家 富山村 富山村平成二十五年 北遠春野)
(しょうとう 東京都渋谷区松濤)
宇田川から西に上がって行くと松濤である。明治9年(1876)紀州徳川家下屋敷跡地に、旧佐賀藩鍋島家が松濤園と名付けた茶園を開いたのが松濤の名の起こりとされる。関東大震災後は住宅地として転用され、現在の姿になっていった。
(うぶさん 愛知県新城市中宇利字曽根川南 1999年12月30日)
比丘尼城跡の南、静岡県三ヶ日町と境を成す標高314mの弓張山系雨生山は、かつて宇利鉱山があって、藍銅、輝銅、赤銅、孔雀石を採掘していた。また、異剥(いはく)石、橄欖(かんらん)岩、斑糲(はんれい)岩、蛇紋岩等も産出し、一部が露出している。山名の由来は二説あり、一つは光格天皇の頃(江戸時代後期)に日照りが続き、雨乞いをしても雨が降らなかった。そこで雨曳天神(前掲の天神宮)の宝物である二つの面を白山(しろやま 後の雨生山)の頂上に運び、浜名湖に向けて海神に祈ると大雨と共に大風が吹き、面の一つが舞い上がり浜名湖宇志海岸(三ヶ日町)に流れ着いた。宇志の村人はその面を祀って神社とし、後の宇志八幡宮になったという。このとき、白山を雨生山と呼ぶようになったとされる。もう一つは、子のなかった領主が夢のお告げで地区西方の吉祥山に祈って子が授かり、産湯はこの山の湧水を使ったため「産生山、うぶ山」と呼ぶようになったともいう。また旧名の白山は、中腹に白山神社を祀っていたからとされ、現在は麓の字曽根川南に下ろされて、旧社地は白山平と呼ばれている。
(関連記事:蛇紋岩地帯植生)
(川崎市高津区末長・梶ケ谷・宮前区梶ケ谷)
当初は鍛治ヶ谷と称したというこの地は、東急による田園都市沿線開発の最初の地である。多摩川右岸段丘上に位置し、隣接する溝口より一段高い地形である。地区の一つ末長は、源義家が後三年の役を平定し京に帰る途中、岡の上に奇異な石を発見し、武運長久を祈った。それを見た村人も末長く栄える様に祈願し、地名の由来となったと伝わる。
電話局の一階に店舗が入る光景
国道246号線厚木街道
梶が谷駅
大山街道ねもじり坂にある笹の原の子育て地蔵
庚申塔
(愛知県新城市中宇利字岡 1999年12月30日)
比丘尼城入り口、茶畑の岡の傍らにある石造舟型光背の青面金剛像の庚申塔である。庚申とは、人は生まれながらにして体内に「三尸(さんし)の虫」というものを持っており、それが六十日を周期として天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため、病気になったり、寿命を縮めたりするという。それを防ぐため、庚申の日には、三尸の虫が昇天しないよう徹夜で「守庚申」をし、合わせて健康長寿を祈念する信仰遊戯が行われ始め、また自らの過ちの懺悔も行うようになった。八世紀の道教伝来よりの行事である。
(川崎市宮前区宮崎)
昭和41年(1966)田園都市線が開通するまでは、高地は山林で低地は農地であったという。地名も宮前(みやさき)村であったが、川崎市に合併されて以降、市内に既に宮前小学校があったため、この地の宮前小学校を読みに合わせ宮崎小学校と改めた。その後地名も「宮崎」と変更され、駅名は混同を避けるため「宮崎台」と変更されている。付近は起伏が激しく、駅前はすぐ坂であり、田園都市線も地形的要因により高架となっている。