(旧諸戸家邸宅 三重県桑名市 国指定文化財 2005年10月31日)
六華苑は桑名の豪商東諸戸家の邸宅跡で、敷地は18,491m²、明治44年(1911)二代目諸戸清六のとき、鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルにより洋館が設計された。
面積219.45m²の洋館は、ルネサンス様式とビクトリア様式を取り入れ、4層の塔屋を持ち、洋館と同時期の地元棟梁建築による日本家屋(和館)と接合している。
建物の中は、今尚古さを感じさせない調度、造りであり、往時の屋主の先見さを感じる。また、洋館の窓からは池泉回遊式日本庭園が覗く。その他、渡り廊下により番蔵棟と海津旧高須藩御殿がつながっており、隣接して離れや稲荷社等がある。
平成2年、諸戸家より桑名市へ建物の寄贈を受け、平成5年に六華苑として一般公開。平成9年には洋館、日本家屋とも国指定重要文化財となり、その他建物にも県及び市文化財指定を受けて、平成13年には庭園も国指定名勝となった。
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(愛知県一宮市)
尾西市、木曽川町が編入され、規模が大きくなった一宮。然しながら、中心部の衰退は周辺都市同様著しく、今まで平均すると年2、3回訪れているがこの地だが、その度に商いの灯りが減っているように思う。ランドマークと言っても過言ではなかったグランドタマコシ跡地にはマンションが建とうとしているが、基礎部分の解体と新基礎との絡みが難かしいのか、半年前とあまり変わらない光景。未だに旧建物の基礎の一部が覗く。短期間にいろいろあった向かい側の「迎陽館」も、更地となっていた。こちらもマンションとなるようである。
一宮本町、父が生前「故郷を思い出す」と言ってよく訪れた通りである。鎌倉街道及び岐阜街道一宮宿があった場所であり、一宮の商業を現す通りでもあるが、開店している商店の数は次第に減っている。八百屋の前だけは、懐かしい賑やかさを見せてはいたが…。灯りの灯らない建物を見ていると、哀愁を感じずにはいられない。
本町は尾張国一宮、真清田神社の参道商店街として発展した。その一宮真清田神社は、何かしら私にとって無縁とは思えないのである。知る人ぞ知る、その読みからして。
旧街道筋本町八丁目の豊島図書館。初めて一宮に訪れたとき、館内に「一宮市博物館準備室」が存在していた。
現在はその博物館も妙興寺に隣接して開館している。
図書館の隣りには真言宗の寶部山地蔵寺があり、たくさんの石仏が並び、市街地の中に緑が広がっている。(地蔵寺へは2005年12月17日訪)
(1991年一宮本町七夕の模様)
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(愛知県南設楽郡鳳来町川合 1997年10月26日の日記から)
“三河川合”へは何回か通り過ぎながら、降り立ったことはなかった。
川合はその名の通り、豊川水系の宇連川と亀淵川、乳岩川、大島川の各河川が合流するところ、ということで付けられた地名である。
川合駅を降りると、今まで車窓から見ていた風景同様ひっそりしている。然し昔は別所街道(宇連川左岸)と望月街道(宇連川右岸)の分岐点にあたるこの地は交通の要所であり、その名残も町並みから伺い知ることができる。現在は鳳来湖や乳岩峡への玄関口の場所といった感じである。
川合と対岸の名号を結ぶ橋にも印象深いものがあった。そして、「長瀬渕」に架かる吊橋が目にとまった。人一人が通れる程の狭い吊橋だが、現在は使用されておらず、床板も所々抜けており、進入禁止の標識が置かれていた。そのすぐ隣りには、今年3月完成したばかりの逆三角形ワーレントラス補鋼形式の水管橋が並び、過去と現在の二面が一面に合成されたような歴史の流れを感じた。ここから少し下ったところには、川岸から少し突き出た物体が見えた。また、川の中央にも柱状のものが建っていた。これは旧別所街道郡界橋跡であり、別所街道が県道に昇格したのをきっかけに、明治13年に造られたものである。昭和27年に木造であった橋桁部分を取り替えたのが最後で、昭和32年新道の鳳来橋が竣工し、やがてその役目を終えた。次第に欄干、橋桁が朽ち、現在に残る“遺跡”となったのである。川合側のたもとの旧路面上には住宅が建っている。
大正9年、鳳来寺鉄道時代に建設された飯田線三河川合駅舎(平成10年解体)
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別所街道は旧別所村(北設楽郡東栄町)と豊橋を結んだ里道の総称、明治9年に正式に「別所街道」と呼ばれるようになった。
平野村は明治22年にいわゆる西郷七ヶ村が合併して西郷村となる。
そして明治39年に石巻村となり、昭和30年に豊橋市に編入され、石巻平野町となった。
平野は北西に西川、北東に萩平、西に入文(石巻小野田町)、南に馬越(石巻本町)に接している。
丘陵地には古墳が点在し、今は特産の次郎柿やミカンが栽培されている。
また旧村内南、標高259mであった日名倉山は、砕石によって年々その形を変えつつある。
私が子供の頃はこの辺りまで遠征し、堂下川(郷道川)で遊んだものであった。
街道筋の酒屋さんに、川や橋のことを尋ねたのを思い出す。
(旧一宮町現豊川市)
西原地区城館跡 (トップ写真遠景)
西原字松葉には、「堀の内」という通称地名と共に、堀が残されている。
この堀は次第に埋められ、成徳寺境内の一部を残すのみとなっているが、西原東側の旧外(よそ)川(現灌漑排水路)までと、後述する南側金剛寺方面に延びている痕跡がみられる。
平安後期、三河守護大江定基がこの地に居住したと伝えられ、西原館と称されているが、鎌倉時代以降もこの地に豪族が存在したことも考えられ、南の金剛寺境内からはその時代の陶器及び山茶碗、土鍋等も出土している。
金剛寺境内にも、堀、土塁遺構の一部が残されており、一般に金剛谷城と称されているが、最初の西原館を含んだ一つの城であったとも推測できる。
また、古老の伝承には、西原西側の進雄神社にも城があり、その城主が西原南側の木戸の城(篠田屋敷か)へ戦いを仕掛けた。というものがある。
(進雄神社境内には宝篋印塔の一部が残されている)
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鎗殿城跡
東上字白楽、本宮山から舌状に伸びる台地端部に位置する。
1975年若返大学発行「一宮町のむか志ばなし」には槍出城とし、大隅鞍武居城としている。
戦後開墾が行われ、明確な遺構は残存していないが、溝状の堀、低い土塁と北側に堀切の役目を成す地形が見受けられる。
近い将来、城跡内を国道151号線バイパス建設が予定されており、その際には学術的検証が行われることであろう。
勝川城跡
東上字勝川の城山に勝川城跡が存在したと言われている。
現在は本宮パークゴルフ場となっており、城山も一部を除き削平されてしまったが、城に関連すると思われる宝篋印塔が残っている。
城が築かれる以前からこの地には勝川寺という寺院が存在した。
南北朝の頃、この寺院境内を利用した、同じ台地上にある鎗殿城の砦の役割をした城が築かれたのではないかと想定している。
松原城跡
近隣段丘端、上長山字東水神平に位置する本宮長山城と同一説もあるが、その館城であったであろうと考えられる。
場所は松原地内字嶋川原の素盞鳴神社付近。
この辺りは文安四年(1447)七月の洪水によって豊川の流路が大きく変わり、旧宝飯・八名郡境であった松原、豊津(日下部)の境を流れていた豊川が、現在の流路に変わった頃までははっきりと存在したであろうと思われる。
城主不明というところは、本宮長山城の関連であるために現在まで伝わらなかったのであろうと考えられる。
因みに城主は熱田大宮司系長山氏、この地に移り住んでから苗字を長山に改めたといわれている。 (また一説には室町幕府管領細川高国の子細川高頼が当地に来て長山氏と姓を改めたともいう。そして高頼の子高元が今川氏に属し、永禄三年(1560)桶狭間の戦いで戦死、廃城になったともいう)
日下部城跡
豊津字釜ノ口、豊津神社付近と推定する。
1976年小学館発行「探訪日本の城3東海道」には、この地が松原城跡かとしているが、旧日下部村地内であるこの地を日下部城跡とみることが妥当であろう。
文安四年(1447)七月の洪水による豊川流路変遷までは、旧豊川左岸に位置し、八名・宝飯郡境の要害の地に城を構えたと思われる。
城主は後の砥鹿神社神職草鹿砥氏である日下部氏であろうといわれ、また付近の通称字に「堀口」という地名も残されている。
(2001年10月26日)
街道四百年の秋の木曽路を訪ねた。
今年は例年以上に人の訪れが多いようで、9月に起きたテロ事件など昨今の世界情勢からであろうか、“国内で癒し旅行を”という人が増えてきているようである。
通勤列車を臨時に座席指定化し混雑した車内を4時間過ごし、ようやく福島に到着。
明日イベントがあるためか、ある程度活気づいてはいるが、予想より観光地化はされていない感じを受けた。
今回は、去年計画して実行できなかった御岳方面には向かわず、街道筋一本で風情を味わおうと試みることとした。
中山道三十七番目のこの辺りは、予想より早い紅のカラーリングであった。
古い町並みと川のせせらぎ。
やがて、日本庭園が見え始めた。
庭園のある山村代官屋敷に入ると、当時の調度がそのまま残されていた。
ここは旧領主木曽氏の居館跡に築かれたもので、その臣山村氏が木曽代官を命ぜられ、福島関所を預かることとなったところである。
明日は賑わうであろう、その関所にも訪れた。
日本四大関所の一つで、昭和50年に古絵図を基に発掘調査、建物が再現された。
そして“きそふく”を後に木曽路を下り、中津川の町や北恵那鉄道の跡に向かってみた。
(2004年7月26日)
天候の崩れた御岳をあとに、麓の福島の町へと舞い戻る。
木曽川親水公園、本町、上町、上の段、高瀬家資料館と漫ろ歩いた。
その高瀬家は島崎藤村の実姉が嫁いだ家であり、同氏小説「家」のモデルとなったといわれている。
同家お庭で福島の今昔をお話しいただいた。
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寛永十四年(1637)に開設された宿場であるが、それ以前は天正十七年(1589)豊臣秀吉の命により問屋場が設けられたところから始まる。
美江寺の語源は、養老元年(717)当地に建立された美江寺による。伊賀国から十一面観音を移したところ、氾濫していた付近の水が治まり、美しい江となったところから名付けられたともいう。永正三年(1503)応仁の乱で荒廃していた美江寺を再興した美濃守護土岐氏臣、当地城主和田氏が斎藤道三に攻められ、美江寺本尊は天文十八年(1546)に稲葉山城下に移された。その後、永禄十年(1567)に織田信長が美江寺に観音堂を改めて建立し、現在に至っているという。宿の南西、犀川のほとりにある十一面観音堂が美江寺の跡という説と、美江神社境内にある美江寺観音が美江寺跡である説の二説がある。
美江神社の前にある庄屋和田家や、造酒屋布屋など往時の建物が随所にみられる。また、旧巣南町の特産であるバラ、富有柿の畑が美江寺宿を囲むように広がっている。
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(岐阜県大垣市)
この地も空襲により中心地の大半が焼失したところである。
往時は旅籠が十一軒、本陣、脇本陣も存在した。岐阜町や本町、竹島町など本陣のあった辺りには当時からの建物は無い。然し、俵町界隈には、面影の残る一角がある。そして本町からは、美濃路脇往還の竹鼻街道が分岐する。
城下町特有の大垣十曲がりをし、水門川船町川湊の横を美濃路は通る。この辺りには大垣城京口門(西総門)が存在したという。再現された自噴水の横には住吉燈台が建ち、昭和初期まで盛んであった水運の歴史を伝えている。水門川から揖斐川を経て桑名、三河方面とを結んだ水運は、永禄四年(1561)大垣城主氏家直元が堀を開削させたことにより始まる。
また、松尾芭蕉が元禄二年(1689)秋に漂泊を終えた奥の細道むすびの地としても知られている。そして、ここから伊勢へ向かったといわれている。
現在、大垣市では「美濃路大垣宿の景観まちづくり」に取り組んでいるという。
(四角い道標は本町角、丸い道標は船町角に建ち、文政年間建立)
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(岐阜県不破郡垂井町)
古代律令政治によって国郡にそれぞれ役所を置くことになった。美濃国の役所、それがこの美濃国府である。
垂井町府中、現在の南宮御旅神社に政庁があったことが平成3年からの調査で確認され、正殿、東西脇殿、東方官衙跡も検出された。
国府は近隣に建立される国分寺より規模が大きいにも関わらず、各地ではっきりとした位置、範囲や遺構が残り難い。それは寺院ではないため、廃止となった以後の破壊が著しいためであろう。
美濃国分尼寺は国府から東方約1km、国分寺は尼寺から更に東方1kmの大垣市青野町に位置した。また、美濃国一宮の仲山金山彦神社(南宮大社)が南方約1.5km、二宮の伊富岐(いぶき)神社が西方約2.5kmにそれぞれ鎮座し、国府の前方には中央(都)を結ぶ東山道の不破駅が設けられた。
我が家東隣の地区、豊津集落で行われた。
昨日は豊津神社にて打ち上げ花火、手筒花火が奉納され、本日は笹踊りが行われた。
五穀豊穣を祈り、踊りながら地区を回る。
また鬼役が沿道の人々に灰を塗りつける光景も見られた。
豊津神社は明治27年に村内の神社を合祀して誕生した神社である。
豊津神社に残る棟札に、元和二年(1616)のものがあり、天王と書かれている。
明治に入ると、天王社が素盞鳴社となり、豊津神社となった。
豊津は明治11年、現在豊津神社のある旧日下部村、中島村、井島村が合併して誕生した際に名付けられた、いわゆる好字地名である。
また日下部村には砥鹿神社神職であった草鹿砥氏の祖日下部氏の城跡があり、この豊津神社付近に存在したと推定される。