(東海道三十七番 愛知県岡崎市藤川町)
凡そ二十年振りの藤川。近年は、名鉄藤川駅が準急停車駅となり、道の駅や東部地域交流センターむらさき館ができ、変化しつつあるところである。気のせいか、松並木の本数が減っているような感じがした。
(長野市元善町 1998年5月1日)
白根山から長野善光寺に辿り着く。最近、私は関係者からの勧めで、どこの宗派にも属さない善光寺へ再出家の話しがあったため、特別な思いでの参拝となった。善光寺は 推古天皇十年(602)本多善光が、難波の堀江(大阪市)で一光三尊如来を見つけ、伊那の自宅に持ち帰って臼の上に安置したところ、臼が光を放ったことから、「坐光寺」を起こしたとされる。舒明天皇九年(637)勅命により如来像を水内郡芋井(現在地)に遷すことになり、諏訪の地を経て、皇極天皇三年(644)現在地へ遷座した。この寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになったという。国宝の本堂は宝永四年(1707)、重要文化財の三門は寛延三年(1750)の落成である。
瀬戸染付磁製燈籠 明治時代
(関連記事:善光寺御開帳)
(天台宗霊鷲山降劒院真福寺 愛知県岡崎市真福寺町薬師山 1983年)
推古天皇四年(594)物部真福が建立したとされ、仁平元年(1154)に焼失していることから、近隣の北野廃寺との関連性が考えられる寺院である。
(東京都港区麻布台)
東京タワーから麻布台に向かう途中は、飯倉の窪地である。そして一つ路地を入ると、宗教法人霊友会がある。私も一時、「孝霊会」を設立しようと考えたことがあったが、今は信仰に組織はいらないと考えている。この辺りは谷間のような地形をしており、坂も多い。高所にビルが建ち、低地は古くからの民家が建っているが、その形状がより深い谷を現していて、暗い谷底を人工的につくり出している。そして、地上げの途中あるいは名残なのか、低地の住宅の殆どが空き家となっている。
(指月城 山口県萩市 国指定史跡 日本100名城75番)
堀内から更に西に進むと、阿武川の河口、日本海に面する萩城跡がある。戦国時代、指月山に吉見氏が城を築いたのが始まりであり、関ヶ原以降毛利氏が城郭を拡大、城下町を整備し、三十六万石長州藩の政庁が置かれた。文久三年(1863)十三代慶親のとき、山口城に藩機能が移転し、後に廃城となった。
天守台
雁木 門櫓跡
旧三ノ丸花江茶亭
華櫓跡
毛利輝元銅像
(愛知県岡崎市岩津町 県指定史跡 1983年踏査)
6基からなる古墳群の一つで、直径12m,高さ4.5mの円墳であり、複室の横穴式石室を有する。6世紀後半の築造で、石室にはベンガラ(丹塗り:赤色顔料)が塗られている箇所がある。
(浄土宗三縁山広度院増上寺・日本電波塔 東京都港区芝公園)
三年振りの増上寺に訪れる。増上寺の撮影を伽藍の正面から行おうとすると、高い確率で東京タワーが写り込む。そんな東京タワーも元々は増上寺の境内であった。
水盤舍 旧清揚院殿霊廟(三代家光三男綱重)
西向観音
(JR北海道 根室線釧路根室間)
釧路から特産の牡蠣を使った「かきべん」を食しながら、「快速ノサップ」で根室へ向かう。釧路以西の地方幹線らしい線区に比べ、釧路以東は地方交通線色が濃い区間である。単行の54形ディーゼルカーは国鉄末期の製造ということもあってか、簡素かつ老朽感がそれまでの48形等を超えているようにも感じる。乗車した522ルパン三世仕様のシールの窓越しには、霧に包まれた湿原と厚岸湖が見えた。途中、エゾシカを轢いて緊急停車してしまったが、日本で最も動物との接触が多い線区ともいえる。それは、暖流と寒流が交わる釧路沖の温度差によって発生した、この時期特有の霧の深さにも影響しているのであろう。根室まで135.4km,快速で約2時間の距離であるが、99.8kmの名鉄本線が最速1時間20分、195.7kmの飯田線が約6時間かかるのに対して、最高速度85kmのこの区間がこの所要時間で到着できるのも、駅間が離れているからである。
往年の車両余生の地ともいうべき飯田線。私も幼い頃から52形のいわゆる流電や、荷物車であるクモニ83を先頭に68形の5両編成等、老朽化による車両故障で立ち往生したことも含め思い出は尽きない。その後も80系、165系、119系等様々な顔ぶれがあった。近年、JR化以後製造の省エネ車両への転換、区間IC導入、PC枕木化、ロングレール化が進んでいる。然し、37Kレール時代からの丙線(4等)等級は変わっていない。
80系 豊橋駅
日本車両への廃車回送 豊川
80系に先立たれた68形
交換される鉄製架線柱:昭和14年(1939)豊川鉄道時代設置
豊橋~天竜峡間もワンマン運転が開始された