(愛知県西尾市寺津町西市場 旧県社 2007年10月16日)
建久年間(1190-9)大河内氏祖である源顕綱によって、武運の神として誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀ったのが始まりと伝わる。以後、領主大河内氏によって崇敬された。寛永九年(1632)には東照宮から徳川家康を分霊合祀している。
(愛知県西尾市刈宿町後畑 2007年10月18日)
長徳年間(995-8)源満国が違勅の罪によってこの地に配流され、速玉之男神(はやたまおのかみ)を祀ったのが始まりと伝わる。その後、家臣の加藤行信、倉内貞道らが移り住み、神社を守ったという。
(愛知県新城市八名井字宮ノ内 2007年10月16日)
寛文四年(1664)の検地帳には八名井天神社の記載がある。菅原道真を祀るが、大国主神、大山咋神、大山祇神、事代主神、少彦名神、仲津彦尊、倭建神等、多くの祭神が合祀されている。
(愛知県豊川市東上町・江島町 2007年10月16日)
かつての設楽郡、八名郡、宝飯郡の境であるこの辺りは、豊川(とよがわ)の瀬が広くなっていたため、広瀬川原、広瀬川と呼ばれた。現在は堤防により締め切られ、かつての面影はない。鳥居松の瀬(宮出川の合流付近)には、次の伝説がある。鵜飼嶋村(1878-江島村)に鵜を飼う家があり、その家に一人の娘が奉公していた。然し、娘は急に何にも喋らなくなってしまったという。そのうち、娘は毎朝豊川に行くという噂が起こり、村の若者達がある朝こっそり娘の後をつけていった。娘が豊川の河原に降りていくと、対岸の川岸に一人の男が現れた。男は対岸の東上村の百姓で、二人は好き合っていた。然し、深く流れの速い豊川の淵のため、二人は会いたくても川を挟んでしか会えなかった。その光景を見ていた若者達によって、二人のことは村中に広まってしまった。娘は恥ずかしくて家から出ることもできなくなった。娘は思いつめて、死んでしまおうと真夜中に豊川の河原にやってきた。身投げのために娘が河原の石を袂に詰めていると、「死んじゃいかん」と、男の声が聞こえた気がした。「そうだ、死んでしまうより、この石で川の淵を埋めてあの人に会いに行けばいい」そう思った娘は、河原の石を次々に川に投げ込み始めた。やがて朝になり、川向こうに男が現れると、二人は川の両岸から石を投げ込み始めた。二人は毎日石を投げ込んだが、そのうち村人達も一緒になって石を投げ込んでくれるようになった。毎日皆で石を投げ、通りすがりに投げ、仕事のついでに投げ込んでいるうちに、いつの間にか十年の年月が経った。深い豊川の淵も、渡って行ける浅瀬になっていた。二人は浅瀬の真ん中で抱き合って泣き、それを見ていた両岸の村人達も、涙をこぼして喜んだという。