(静岡県富士宮市東町 2006年5月25日)
永禄元年(1558)近隣伝馬町に創建した浄土宗大頂寺は、寛永年間(1624-44)現在地に移転している。享保年間(1716-35)の火災で焼失したが、間もなく再興されている。
(静岡県富士宮市東町 2006年5月25日)
永禄元年(1558)近隣伝馬町に創建した浄土宗大頂寺は、寛永年間(1624-44)現在地に移転している。享保年間(1716-35)の火災で焼失したが、間もなく再興されている。
(東京都江東区大島・江戸川区小松川)
荒川と旧中川に挟まれたこの地は、かつて六価クロム鉱滓の廃棄場所であったが、平成9年に都立公園に整備されて都民の憩いの場となっている。また、公園の地下は都営新宿線車両基地となっている。
(浄土宗後富山平等寺 静岡県富士宮市東町 2006年5月26日)
永禄四年(1561)近隣の神田に弘法大師作の薬師如来を安置した堂宇があり、そこへ通夜した僧了公が霊夢を見て「願徳寺」を建立したのが始まりという。天正年間(1573-91)近隣の伝馬町へ移り平等寺と改められ、後に現在地へ移転した。慶安二年(1649)には徳川家光より朱印領三石二斗を受けている。宝永四年(1707)地震により堂宇が倒壊したが、間もなく再興された。また、明治7年には小学校「岳麓洞(がくろくどう)」の校舎として利用された。
(東京都中央区京橋)
日本橋と銀座の間のこの場所は、両者と比べると地味な地ながらも、近年は再開発によってエドグランやスクエアガーデンが誕生し、上空が変わってきている。また、大正時代築造の尖塔のあった第一生命相互館は、相互館110タワーとして生まれ変わっている。
(静岡県富士宮市大宮町 2006年5月25日)
浅間神社近くの住宅街に小さな社殿がある。永禄九年(1566)今川氏真により、浅間神社の神田であったこの地に、駿河、甲斐の物産市を奨励し、その後、市場の鎮守として神社を祀ったのが始まりという。
(静岡県富士宮市元城町 2006年5月25日)
社殿前の溶岩が市神(いちがみ)として信仰され、また、祭神として大山祗命(おおやまずみのみこと)の娘である磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀り、子育ての神として信仰された。大正時代までは、ひ弱な子どもを神社に置き、誰かに拾い上げてもらうと丈夫に育つという風習があったという。
(東京都江戸川区小岩)
小岩の地名は養老五年(721)の記録「下総国葛飾郡大島郷戸籍」に「甲和里」(こわり)という集落の記載があり、「甲和」の部分が「小岩」に変化したとされる。江戸川右岸のこの地は、古墳時代からの人々の痕跡があり、千葉街道、柴又街道、そして現在は総武線を通じての人々往来で栄えている。
(静岡県沼津市原 2006年5月26日)
臨済宗鵠林山松蔭寺は、弘安二年(1279)天祥西堂が開創したのが始まりという。その後衰退したが、寛永元年(1624)に再興されている。また、当地の商家の三男長澤岩次郎として生まれ、松蔭寺で出家して後に臨済宗の中興の祖となった白隠慧鶴は、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われた。信濃飯山城で生まれた真田信之の子である道鏡慧端によって指導を受け、著名な禅僧となり、当地で没した。
(東京都江戸川区東篠崎町)
江戸川の流れは、この水閘門(すいこうもん)より下流が「旧江戸川」と「江戸川放水路」の二つの流れとなり東京湾に注ぐ。昭和18年(1943)渇水時の海水の溯上防止と、上流の水位を確保し用水を安定供給することを目的に造られたものである。
(富士海岸 静岡県沼津市 2006年5月25日)
駿河湾の内、狩野川河口から田子の浦まで凡そ10kmの海岸を千本松原と呼ぶ。長い歴史の中で自然に形成された海岸の松林と推定されるが、天文六年(1537)武田氏と北条氏との戦いが起こった際、海岸の松林が邪魔と判断し伐採した。その後、付近では潮風により作物に影響が出て困窮したため、僧長円が松の苗を四年間植え続け、千本松原と呼ばれるようになったという。
(関連記事:千本浜)
(東京都江戸川区篠崎)
かつて田圃を潤した用水路である篠田堀は、周辺の宅地化と共に排水路となり汚染されていたが、下水道の整備を経て平成6年に親水緑道として整備された。江戸川の用水路は、古利根川の跡である小合溜井(葛飾区)から発し、篠田堀は東井堀に合流して旧江戸川に注ぐ。
(静岡県沼津市原 旧村社 2006年5月25日)
旧東海道沿いに鎮座するこの社は、原宿の鎮守であり、慶長十四年(1609)武田氏臣であった植松季重がこの地に移り住み、木花咲耶姫命(コノハナサクヤビメノミコト)を勧請し、浅間神社を創建したという。