京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

秋分の日の電車にて

2024年09月26日 | 日々の暮らしの中で


   秋分の日の電車にて床にさす光もろともに運ばれて行く

「心が和んだ。ああ、短歌はこんなに静かに細かい情景を丁寧にうたっていいのか。多くを学ぶところがあった」

   苦しみて生きつつをれば枇杷の花終わりて冬の後半となる   『帰潮』
   
「激しい言葉や目立つ表現はないが、読む者の心の奥に届いてくる。これは何なのだろう」
「それまでの私は、自分の心の激しさや思いの丈を三十一文字にぶつけるのが短歌だと思っていた。それは違ったのだ。そのことを私に思い知らさせてくれた」

   貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲   『帰潮』  
   秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨直なる雨は芝生に沈む    『地表』

佐藤佐太郎の歌を取り上げて、道浦母都子さんのさりげない言葉に自身の姿が浮かび上がり、人の折々の生きようを知る。物事の考え方も知れる。なんでなのかと思うが、言葉というものが、言うならその人そのものだから…かも。

 いいなと思った歌人の歌を、道浦さんの言葉とともに読み返し、
やっぱり思うのは道浦さんの生きよう、来し方。その先に、ゲバ棒をペンに持ち替えた弟の
姿、生きように思いがいく。

窓を開け風を通して昼日なか、本を開ける余裕に秋が来たことを実感。
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月と太陽、かわりばんこに

2024年09月22日 | 日々の暮らしの中で
3泊4日でゴールドコーストから帰って来た家族を迎えた孫娘。さぞやほっとしたのでは。
これだけの日数を一人で過ごしたのは初めてのこと。
「夜、ご飯を作っていたら焦げ焦げになって食べれへんかった」と言ってきた。

誰か忘れてない!?って目をして? 
一人ではなく、ミリーがいたのを今の今まで忘れていたわ。そうだった。


初日の試合で組み分けされて、結果は57チーム中13位。「あかんかったー」は母親の弁。
「シドニーやメルボルンからのチームのレベルがすごいのよ」って。
アンダー8のチームに2人の7歳がまじって(そのうちの一人が孫Lで)彼らのチームは編成されている。
詳しくは知らないし、聞きもしないものだから、7歳8歳でジョートージョートーと思っている私。

それでも家族の、兄の声援に精一杯のプレーをしたことだろう。次への一歩さ。
ちょうど今朝、地元紙の連載コラムにこんな言葉が。
「結果に腐らなければ結局どっちも輝くんだ」


秋分に『立秋』を手に入れた。
皎々たる月の光だろうか? 
「物語を包む美しい装幀は目の保養」と乙川氏がある作品の中で言っていた。

窓を開けて、虫の音を耳にするなどして、訪れる夜長に読める日を待ちたい。
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「大したもん蛇」

2024年09月20日 | 日々の暮らしの中で
9月も初めころだったか、新聞の小さな記事に目が留まった。
第46回サントリー地域文化賞は、水害の記憶を継承する祭り「えちごせきかわ大(たい)したもん蛇(じゃ)まつり」(新潟県関川村)など5団体に決まった。―後略

村の全集落でつくる大蛇が練り歩き、水害の記憶を継承するユニークな祭りだと、ネット上では簡単に紹介されていた。
「越後」「水害の記録」の文字は一足飛びに、読んでまだ日も浅い、乙川優三郎氏の小説『露の玉垣』を思い起こさせた。


越後の新発田は、慶長3年に藩祖の溝口秀勝が入封して以来、長く溝口氏の城下町で、外様大名ながら一度も国替えをされずに、水害を繰り返す水田地帯を治め続けた。
領主も武士も農民も町人も、土地にへばりついて徳川の太平の世を生きた。
洪水と干ばつ、浅間山の噴火は米の不作による飢饉を何度も引き起こした。川の氾濫を無くす自然との戦いと貧困との戦いに、300年にもわたって挑み続けねばならなかった。
溝口半兵衛(1756-1819)は家老という激職の中で、藩士たちの列伝「世臣譜」の編纂を志した。 (解説より)

作者は「たった一人の人間が残した武家社会の実像」をもとに、「小藩の家臣の移ろいやすい運命」「窮乏に喘ぎながらも主家を支えてきた、国史には名をとどめない人たち」の「魂の物語」を書きたいと思われた。
作中、溝口半兵衛はその記録を『露の玉垣』と名付ける。

抗いようのない絶望の底にも、光を見る。わずかな希望を見い出す人間の粘り強さ、忍耐強さ。知恵。人間の生きる力の根源だと言うも思うも易くで、圧倒される思いで読んだ。

新潟県は名にし負う米どころ。米の恩恵を受けて生きてきた人々の祈り。先人への感謝。歴史とともに語り伝えようとする村人の尊い努力が息づいた祭りなのだろう。
継続には担い手の不足がよく話題になるが、俗化されることなく、村人の喜びごととして繰り返されるようであってほしいなと思ったりした。



スーパームーンを見た翌日、娘家族は孫娘一人を残してゴールドコーストへ。
今日から3日間、サッカーのトーナメントがある孫Lの属すチームの応援に繰り出した。



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Look up,

2024年09月18日 | 日々の暮らしの中で


今夜はブリスベンでも美しい月が見られるらしいと言ってきた。

実は昨夜、日本は中秋の名月だけれど、そちらではどんな月が出ているのかと娘にたずねてみた。けれど返信なし、既読にもならずじまいだった。
月は一つ。北半球と南半球の違いがあって、時差は1時間だけれど、どう違うだろうと思ってのこと。

あちらでは今、小中学校が今週と来週と2週間のホリデーに入っていて、いずこも同じか、親には何かと普段にはない用事が増える。
体力消耗か、早々に休んでしまったようで月どころの話ではなかった。

オーストラリアで暮らす娘家族を訪ねて過ごしていた2011年10月、ある晩のことが思い出された。
夕食の片づけを済ませてたまたま外に出たら、ずいぶんと黄味の強い丸いお月さんが上がっていたので、急いで孫娘に声をかけて誘い出したのだった。
「ついてくる~~~」
どこをどう歩きまわっても、走って逃げようが、月は付いてくる。しまいには、月に向かって走り出すなど、反応のテンションは高く、それが愉快だったのを覚えている。

何かが誘い水となって眠っていた記憶が掘り起こされることは多々ある。
普段は月を見あげる余裕を失っていても、思い出を懐かしむようなときは必ずくると思う。
家族みんなで月を見あげる夜があっていい。

こんなこと思いながらその時刻を迎えた。
「くもってみえませぬーーーーー」と6時過ぎ。(向こうは7時過ぎて)
(あっらぁ) しかし2時間後、「フルムーン、きれいにみえました~」
こちらもようやく雲が晴れて、満月のお顔を拝見したのは9時前になっていた。

こんな一日でも、振り返ることはあるかもしれない。
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月今宵

2024年09月17日 | 日々の暮らしの中で
整形外科で足指の治療を受けている、と言ってきたのはひと月ほど前のこと。
あれからどうされているのか、連絡はない。
日中は37度をわずかに下回る猛暑だったが、今宵は中秋の名月。
東の山の上に、丸い大きなお月さんが上がってくるのをしばし眺めていた。満月は明日だという。

友人に足の具合を訪ねながら、声をかけてみた。 
 〈 養生もほどほどにして月今宵 〉  (西野文代) 
「お月さん、見てますか」

いつのことだったか、この友に案内をいただき芭蕉の墓所、義仲寺を訪れたのだった。



芭蕉は元禄4年、6月から9月まで大津に滞在していた。十六夜の月を賞美して堅田に渡ったときの句。  

   鎖(じょう)開けて月さし入れよ浮御堂

御堂の中におはします千体仏に、扉の隙間から差しこんだ月の光が当たる。
千体が光を集める、と想像しよう。光に映える御堂は、湖上に輝いて浮きあがって見えるだろうか…。
イマジン、イマジン。

月の美しさ、妖しさ。琵琶湖と月と文学。いろいろありますねえ。
ところで友は月を眺めただろうか…。
                  (浮御堂の写真は’23.5.16のときのもの)
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ゆっくり歩いて、書いて、生きて、とあらためて

2024年09月15日 | 日々の暮らしの中で
文章仲間との集いがあった土曜日は、散会後、夕刻から馴染みのある料理屋さんでくつろいだ。夫の縁で足を向けるようになって、少し間があいたがご主人との談笑も楽しく、ゆったりとした時間を過ごした。
幸い同じ趣味を持っている。老・老の域にいながらも、気持の上では華やぎを失わずにいたいものだ。

一日をゆっくり見つめ
ゆっくり歩いて
ゆっくり書いて
ゆっくり生きて       (高木護)

これだな、こうありたい…と、思いを新たにすることもあった

 

今日13歳の誕生日を迎えた孫T。「きょうはすばらしい日~」を過ごしたことだろう。
カードは12日に届いた。

今日は疲れ休みの平凡な一日だったが、であっても、いろいろな思いを交錯させて過ごす。
映画「幻の光」が上映されているからと誘われたが、原作を読んでいるからとオコトワリした。
能登半島沖地震で被害を受けた輪島市を支援のため、リバイバル公開だそうな。宮本輝氏の原作「幻の光」の映画化だというが、知らずに来た。
で、実際はうろ覚えの箇所もあって読み直したりもしていた。


「雨上がりの線路の上を、背を丸めて歩いていく後姿が振り払うても振り払うても心の隅から浮かんでくる」
生れて3ヵ月になる息子と妻を遺して死んでしまった夫に向けて、心の中でのひとりごとがやまない。物語は最後まで“ひとりごと”で展開する。
「なんで死んだんやろ、なんであんたは、轢かれる瞬間までひたすら線路の真ん中を歩きつづけてたんやろ、いったいあんたは、そうやってどこへ行きたかったんやろ」と問い続ける。
尼崎から奥能登の曾々木という地に嫁いで、新しい家族を作ってからもそれは続く…。
原作の余韻は大事にしておこう。

『錦繍』にあった「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じかもしれない」の一節が重なってきた。


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錦繍の日々

2024年09月12日 | 日々の暮らしの中で
♬ 猛暑は続く~よ
    あしたもあさっても~

孫娘に誕生日のメッセージカードを送ろうと郵便局まで歩いた。空は黒い雲が広がりつつあって、日傘をさして雨傘をバックにいれて。
こういうとき大抵は無駄になるのだけれど、帰宅後しばらくして短い夕立のような雨が降った。


手紙のやりとりの中で互いの過去を見つめ、過去を生き直し、現在の生活を確かめ直すことからそれぞれの未来へと歩み出す、そんな姿がうかがえるドラマだった。
じわじわと感動が生まれつつある。
『錦繍』(きんしゅう)を読み終え、6月に新刊書店で買っておいたエッセイ集『命の器』を取り出した。


梅田の繁華街で道端に茣蓙を敷いて古本を売っていた男から10冊の文庫本を選んで買ったという話があって(「十冊の文庫本」1983)、そのうちの一冊、ドストエフスキーの〈「貧しき人々」はそれから20年後、私に「錦繍」を書かせた〉と書かれていた。

「十冊の文庫本に登場する人々から、何百、いや何千もの人間の苦しみや喜びを知った。何百、何千もの風景から、世界というものを知った。何百、何千ものちょっとした会話から、心の動き方を教わった。たった十冊の文庫本からである」

右鎖骨下に病巣を抱え、上野駅で血を吐きながら友人には内緒にして、一緒に蔵王温泉に行った時のことも「錦繍の日々」(1983)にある。療養生活を経て健康を恢復して、『錦繍』が書かれた。

やがて錦織りなす紅葉の季節を迎えるが、紅葉は「自分の命が、絶えまなく刻々と色変わりしながら噴き上げている錦の炎である」。
生命そのもの。清濁、虚実、憎悪、善悪、[そして限りなく清純なものも隠し持つ、混沌とした私たちの生命」であり、時、場所、境遇も問わず、「人はみな錦繍の日々を生きている」のだと言われている。

宮本輝氏を敬愛する知人がいるのだが、小説ばかりで初めて氏のエッセイを読みつつ、(うんうん、なんかわかるかな)と独り言つ。そんな浅いもんじゃない!とお叱りを受けそうだ。
「流転の海」、シリーズ初発で挫折したが再びのチャンスありやなしや。
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人は心の中に塔をもつ

2024年09月10日 | 日々の暮らしの中で
今週末の寺子屋エッセイサロンでの合評会に間に合うよう、苦心しつつ仕上げに勤しむ。
いつかいつか、詩歌を散文の中に交えたスタイルで、(でも身の程知らずの歌論などではないわ、しかし単なる引用のちりばめでもなく)エッセイを書きたいな、書くのだ、なんて思い続けて、いったいまあ何年の年月が流れ…。
大きな方向だけは見失うことなく気持ちの奥底に据えている。

午後4時頃にはひと雨降りそうな空模様に期待したが、雷鳴が2発に雨少々で終わってしまった。ただ、気温が下がって、エアコンなしでいられる。
心なしか虫の音も繁く高らかだ。



先日、薬師寺東塔の全解体修理の様子をテレビで見て以降、「変わりゆく伽藍と塔の雪」(大岡信)、「薬師寺東塔」(矢内原伊作)、『古寺巡礼 抄」(和辻哲郎)など読み継いでいた。
これらの作品の書かれた年代が古いだけに、読み知るにつれ再建や復興への悲願が身に沁みてくる。
母を案内して訪れたとき、西塔の再建はなっていなかった。それ以後長きの無沙汰…。もっと気候が良くなったら訪れたいものだ。


   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

「人はそれぞれの心の中に塔をもつ。塔は天上的なものへの、人間の祈りと讃仰の姿である」と。





 
サッカーのクラブでのシーズンが終了した孫L。
イタリア人がオーナーだというアカデミーのアンダー8のチーム(右)にも参加していて、こちらは見事優勝で終わった。
「家族の中で一番のワル」と姉のJessieが言っていたのを思いだすのだけど、顔つきもたくましくなったかな。
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米の飯さえあれば生きていける

2024年09月07日 | 日々の暮らしの中で
その日、家で大人のいざこざに巻き込まれ、登校拒否になってしまったYちゃんと、戦争で右足を無くし松葉杖を突いて登校中、その歩く姿を真似られ、からかわれて泣きだしたKちゃんの二人を元気づけるため、小3から中2の女の子ばかり10人が、誰言うとなく一握りの米を持ち寄り、摘んだヨモギやノゲシの葉を入れて大鍋で雑炊を炊いた。

塩で味付けしたあたたかい雑炊は、「小さな胸の中の悩みや悲しみを、白い湯気で包んで笑顔に変える魔法の力を持っていた」


「もう六十年も前の沖縄での事」として玻名城千代子さんが書いていた。(『人間はすごいな』収 「米の飯さえあれば」)
文中の「60年も前」というのは、現時点では74年ほど前になろうか。
夢を語り、「いつか銀シャリのおにぎりを持って」と言い合った少女たち。

年月は流れ、日本はいまだ飽食の時代を思わせる。テレビ画面にはパクパク、もぐもぐ、ものを食べる姿がうんざりするほど映る。さまざまの食べ物の写真もあふれるし…。
でも、本当の“豊かさ”だろうか。

玻名城さんは、「古希を過ぎ、貧しくなるばかりの老いの日々だが、銀シャリさえあれば生きていける」と結んでいた。

我が家の義母も生前はよく口にしていた。
「ご飯がないのはかなん」
米がなかったわけではなく、仮におかずは漬け物だけであっても、とにかく白米だけは気のすむよう満足に食べたい口だった。
寺という環境で育った義母なりの、白米への思い入れかもしれない。
義母は「もっと食べろ、食べろ」と私に口うるさかったが、私は家にいれば、一日1回夜、一膳の白米をいただく。この基本は若い頃から変わりようがない。


その米が、売り場の棚から姿を消した。品薄と言われてここ久しい。
新米の時期には「仏さんに」と大きな袋であげて下さるご門徒がおいでだ。変わらぬお気持ちへの感謝の念が深まる。
底をつく前にと意識はしていたけれど出会いに恵まれず、少々不安になりかけてきた先日、5キロの新米が手にはいった。

「米の飯さえあれば生きていける」
これを一つの灯りとして、これからはそう信じて生きなければならないのだろうか。
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縁を生かして

2024年09月03日 | 日々の暮らしの中で

   葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。
        この山道に行きし人あり
 
釈迢空(折口信夫 1887-1953)の歌集『海やまのあひだ』の巻頭の一首。

深い紫紅色の花房が無惨にねじれて踏みしだかれている。この山道に自分より先に入っていった人がいる。どんな人か。
先んじられたことを口惜しがっているのではなく、私と同じことをたくらみ、それを実行した人がいるということに胸がときめいているのである。
杉本秀太郎氏はこのような意を読んでおられる。歌意は平明ではない、と言われる歌だが。

今日は迢空忌。

 

「折口信夫」の名を知るきっかけとなった『折口学への招待 民俗文学への入門』は、高校を卒業して大学入学までの間に読んでおくよう古典の授業を通しての恩師から紹介された幾冊かのうちの一冊だった。
あとに続きたい。先生のような古典の授業をしたい。日本文学、それも中古文学を専攻したい、と自分の進む道をすでに思い描いていた。

日本文学の根底にある民俗学的方法なるものへの案内として、提示して下されたのだろう。
本がというより、恩師との大切な思い出の一つということで大事に手元に残している。
師とは長くハガキや手紙でやり取りさせていただいて、筆跡を、漢字とひらがなのバランスなど文字の表情とでもいおうか、よく真似をした。

民俗探訪のためにと足を使って分け入ることもなく、研究成果をいただく机上の学問だったけれど、学び、知るにつけ作品を読むうえで深みが増す。それはそれで楽しいものだった。


ここ最近、大昔の学びを振り返る機会に恵まれて、懐かしい自分をそこに見出している。刺激が、自分をつつく。触発されて残っているちょっとの関心が、気持ちを動かすのだ。何年振りかというほどに『身毒丸』を読み返し、「次」を考えている。
これは幸いなことね。
ともし火が消えないうちにと縁をも生かす。生かさないなんてもったいないでしょ。

窓の外、冷ややな空気の中に澄んだ虫の声。

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木組み・心組み

2024年09月01日 | 日々の暮らしの中で
昨夜、NHKの番組「新プロジェクトX」を観た。1300年を経た薬師寺東塔の全解体修理に携わる職人さんたちの〈技と哲学〉、挑戦の姿に見入った。




1300年の荷重で腐食したりゆがんだ心柱をはじめに1300あるという部材を、「創建当時の工人たちの心になって」仕事をされていく職人さんたち。
2012年に開始された修理は2019年に終了、9割の部材を生かすことができたと伝えられた。近しい者の幸せや世の安穏を祈りつつだったろう。


飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝える棟梁・西岡常一さんを描いた
映画、「宮大工西岡常一の遺言 鬼に訊け」を見たことがある。
「技法に世襲なし」 は名言として残る。

法隆寺の大工には代々口伝が伝わっているそうで、西岡氏も祖父の常吉棟梁から教えを受けていた。
「木は生育の方位のまま使え、東西南北はその方位のままに」
   山の南に生えていた木は、塔を建てる時に南側に使え。北の木は北、東の木は東、
   西の木は西に、育った木の方位のまま使えと。
   
「堂塔の木組は、寸法で組まず木の癖で組め」
「百工あらば百念あり…」

「木の癖組は工人たちの心組み」

木と同じように人にも癖がある。
木の癖を生かした木組みをし、工人たちの心を汲んで心組みをする。
ありとあらゆる職人たちが心を一つにして仕事に向かえる集団にしていくことは、棟梁の器量なのですな…。
物の見方、人とのつきあい方、教えられるようだ。


「初め器用な人はどんどん前へ進んでいくんですが、本当のものをつかまないうちに進んでしまうこともあるわけです。
だけれども不器用な人は、とことんやらないと得心ができない。こんな人が大器晩成ですな。頭が切れたり、器用な人より、ちょっと鈍感で誠実な人の方がよろしいですな」

1300年、ここに建ち続けているということが、建て方、材の用い方…誤りではなかったことの証しとなること、印象に残った。
創建当時の工人さんたちの技法、哲学、祈りの心、に遠く遠く思いをはせてみる。

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あと少しが遠くても

2024年08月29日 | 日々の暮らしの中で
台風情報に翻弄され気味で、本土上陸後の激しい雨風による被害の大きさを知っても、さて、いつから行動を起こすかと思案で終わっている。
庫裏の建物は周囲ぐるっと溝がめぐらされているので、大雨に供えて流れをきちんと確保できるようでなくてはならない。
吹き飛ばされそうなものはすべて蔵へしまおう。
一度庭木の枝が高所で折れて、それが廊下の窓に倒れかかったことがあった。雨戸はいつ閉めよう? 本堂は厳重に雨戸を閉める。

雨は降ったりやんだりで今は特段警戒を要する状況までは至っていない。最接近するという日を目安に、明日にでも、情報を確認しつつでいいだろう。
溝は大丈夫。大慌てしてでも閉めまくればいいのだから。
と、やきもきするのは女手一つ。…いざとなったら動いてくれるのでしょう。


そんななか、孫のTylerに贈ろうとバースデーカードを認めた。
ちょっと油断してしまって、来月15日にぎりぎりで間に合うかどうか。明日には郵便局に行く。


13歳。thirteen。「ティーンエイジャー」だから、ちょっと大人っぽい?カードにして、しかし中はくだけて、生まれてからの想い出をいくつか並べ、親切心はほめ言葉をちりばめた。

夜、まだ封をしてないカードを取り出して、とどめの一筆を。
テレビで聞いたばかりの歌詞を片隅に記した。

    ♪あと少しが遠くても
       足あとの数を誇ろう

想いは通じるかしら、13歳に。
それにしても・・・ 過ぎたるはなんとやら言いますわなあ。


アイスが欲しくて探しにいく4歳半ばのTyler.
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心が和んだ

2024年08月26日 | 日々の暮らしの中で

どうしても今日には詣っておきたかった事情もあって東本願寺へ。
塀沿いの法語行灯の中に、〈苦し「み」  悲し「み」  悩「み」、いずれも人生の味 〉ー といったことが記されたのがあった。
人の心の底など見通せる(見通される)ものではないと思うも、人の中に生きるとき、こうしたことがわかる細やかな神経、思いやりや優しさをもっていたい。


父の母親は寺に生まれた。だからといって特別熱心なということは表面上は感じてこなかったが、この祖母や父の姿に倣い生きてきた日々に、仏縁はひそかに結ばれていたと気づかされる。




〈秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く〉
  心が和んだ。ああ、短歌はこんなに静かに情景を丁寧に歌っていいのか。多く学ぶところがあった。作歌に迷ったら、佐藤佐太郎を読みなさい。そう言って下さったのは、誰だったのだろう。

〈苦しみて生きつつをれば枇杷の花終わりて冬の後半となる〉
  私は考えた。それまでの私は、自分の心の激しさや思いの丈を三十一文字にぶつけるのが短歌だと思っていた。それは違ったのだ。佐藤佐太郎の作品は、そのことを私に思い知らさせてくれた。
                 (石蕗の章 佐藤佐太郎  より)

道浦母都子さんの『歌人探訪 挽歌の華』をゆっくりと、それこそ一日一人のペースで読んでいる。
1947年に生まれ早稲田に入学。反戦デモに参加するようになって、学生運動の挫折、その後の孤独といったことなどにも、なぜか心魅かれる歌人のお一人でいたが、道浦さんの「原稿用紙千枚分を三十一文字で表現するような一首ができるかもしれない」の言葉もまた強く印象付けられて記憶されている。

情熱を秘めつつ、物静かな人がいい。
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お地蔵さんを洗い清め

2024年08月21日 | 日々の暮らしの中で
地蔵盆をまえに町内の祠におさめられたお地蔵さまを洗い清めた子どもたち。
お座布団に前掛けと、新しいものが用意される。

当日は朝から大人が出て会所の庭先にテントを張り、座敷にはお地蔵さんの飾り付けをすませる。
23.24日と主役である子供たちを見守り、食事の世話などもろもろの助っ人役を務める大人の方が、子どもの数を上回っているんじゃない?という昨今だが、そのぶん安全に目も届き、思いっきりくつろいで遊びにも興じられるというもの。

お供え物を何にしましょう。
飲み物、駄菓子、カップラーメンなどのインスタントもの、果物…、各家から供えられたものは子どもたちで等分に分けて、彼らの口に入る。

「じぞ(地蔵)さんに賽銭あげとくれ~」
賽銭箱を持った年長者のあとについて町内を練り歩く子どもたちの声が通りに響く。
夜には町内が寄って数珠回しをしながら、子供たちの無病息災を祈り大数珠を拝す。
夏休み最後となるオタノシミ、どうぞ無事に済みますように。


様々な年齢が一つ箇所に集まって過ごす2日間。小さな社会体験を重ねて親睦していく姿はよいものです。


連日の猛暑は未だ衰え知らずとはいえ、季節の微妙な移りを覚えることがある。

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盆の夜空を飾る

2024年08月16日 | 日々の暮らしの中で

火を灯すには少しきつめだという北風が吹いているようだったが、今年もきれいに五山の送り火が焚かれた。

最近はもっぱらテレビでその様子を拝見している。動画にとってAUSの娘家族の元にも届けた。
昨日は「妙法」のうちの「妙」の火床を車からチラっと見て、暑いさなかに準備を進める地域の方々の努力を思った。

「大」文字は真西に向いてはいなくて、やや北西寄りに傾いて灯される。なので大文字が最も美しく、真正面に見えるのは足利義尚の墓所がある相国寺だという。
銀閣寺をたてた8代将軍足利義政が、25歳で亡くなった子の義尚の菩提を弔うために、相国寺の僧侶に頼んで作らせたのが送り火の始まりだった -という説があるそうな。
とすれば、「大」の送り火は義尚に見てもらうことを目的に灯されたと考えられる、と八木透氏が書かれていたことがあった。

浄土真宗では、お盆に先祖を迎え供養し送り出すといった習俗はないのだけれど、先祖を偲び、お仏壇に手を合わせ…、この先には、京都の盆の夜空を飾る風物詩。煙たなびく送り火を目にすれば、やっぱりしみじみする瞬間がある(小さな声で言っておこうかな)。


先祖のご恩に報いるためには、仏法を何より大切になさいませ…。

                    (小林良正さんの「ほほえみ地蔵」より)
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