京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

真如堂のボダイジュ

2023年06月04日 | こんなところ訪ねて

僧栄西が中国の天台山で修業を積み、帰国の際に苗木を持ち帰って各地に植えたと伝える菩提樹。お釈迦様はさまざまな困難の中で修業を積み、菩提樹の下で悟りを開いたと言い伝えられている。
ただ本物のインドボダイジュは別物で、日本では生育しない。そこでこの菩提樹、別名シナノキを代用しているという。真如堂にある木もその子孫かもしれない。
      
       天蓋のごとく菩提樹咲きにけり    那須茂竹


本当のインドの菩提樹は蔓性の植物で、他の木に絡みつき栄養を奪いながら、芯の木を締め付けていく。最後には元の木を殺してしまうので別名シメゴロシノキ…だと『絞め殺しの樹』(河﨑秋子)にあった。
根室の狭い集落の中で、傷つけ合い、踏みつけ合い、絡み合い、枯らし合い、それでも生きた祖父母、両親、地域の人々、血のつながった人々の物語を読んだのだった。

ちょうど今朝、地元紙に月一で掲載される「文学の舞台を行く」では安部龍太郎氏の『等伯』が取り上げられた。

利休が秀吉から切腹を命じられたとき、等伯に言う。
「筋の通らぬことに屈して生きるよりは、己の生き様を貫いて命を終えた方がええ」
「内側は自分の世界や。命をかけて守らんでどうする」お前にその覚悟があるかと、利休は等伯の顔を真っ直ぐに見つめた。

この引用箇所を読んで、ぼんやりと思いを巡らせていた。
自分一人の幸福を求めて終わる一生は、ちっぽけ過ぎて虚しいというのなら、苦労も我慢も、ましてやそこに点る明かりは人生の宝物かもしれない。
心にふたをしさえしなければ、自分の人生の値打ちを教えてくれる人との出会いもある。
どのように生きるも個々が賜った道。如来は大悲をもって迷えるものを哀れみくださる……のかな。




「『等伯』読んでごらんなさい」
高野山夏季大学の三日間を終えた帰りのバス車内で隣り合わせた高齢の女性と話がはずみ、その折にこう薦めてくれたことがあった。
なにか今になって読んでみたくなりました。

コメント
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