曽野綾子さんの訃報を目にした。 93歳。
有吉佐和子さん、瀬戸内寂聴さんとともに「才女時代」の到来と注目された、とある。
一冊の小説も読んでこなかったが、『人生の収穫』『人生の旅路』をずいぶんと昔に読んだことがあった。
2冊の著書の中から、それぞれこの一節を書き写していた。
「自分の内心がどのようであろうと、平静と礼儀を失わないように取り繕え! 心からでなくとも、理性だけでもいいから愛を実行せよ、とキリスト教は教える。心と行動は違っても仕方がない。せめて心と行動とは裏腹でいいから、相手に優しくせよ、と教えているのだ」
「宗教の違いを超えることは、人間的な礼儀である。相手の信仰を何かのために使うことではない。相手の考えや信仰の対象に対して尊敬を払い、その人の心の安らぎを乱そうとは思わないから、私たちはできるのである。」
「根本のところでは立場の違いはある。…かなりものの考え方が違う。違いはあくまで礼儀正しく認め合えばいいのだ。」

さまざまな考えを持つ人の中で生きている。身近な小集団ほど人間関係は狭い。
そんなとき私のように感情が顔に出やすかったり、あまりに主観的な立場や考えを示していると、どことなく不平不満の裏返しに受け取られかねないし、不快感を与えるかもしれない。
嫁いだころ、義母はよく「出しゃばったらあかん」「後ろで見ていたらいんや」と小言めいたひと言をくれたものだった。右から左だった人間でも少しずつ、「わたしは」「わたしは…考えます」とは控えることを身につけていった。
むろん、どのような場でも言うべき時は発言している。思ったこと、感じたこと含めて。
心の内には思っていてもそのように行動、実践できないこと(とき)はある。
だから曽野さんからいただいた言葉は、言うならタカラモノ。
ただ曽野さんはこうも言われていた。
「どこかに欠陥がある体に耐えることは、凡庸な自己修行法だと思える」って。
体を「性格」とも置き換えて、心に刻んでいる。
大切なことは、心にしまうだけでなく、考えていることを自分の生活の上に証していくことなのだと思っている。
有吉佐和子さん、瀬戸内寂聴さんとともに「才女時代」の到来と注目された、とある。
一冊の小説も読んでこなかったが、『人生の収穫』『人生の旅路』をずいぶんと昔に読んだことがあった。
2冊の著書の中から、それぞれこの一節を書き写していた。
「自分の内心がどのようであろうと、平静と礼儀を失わないように取り繕え! 心からでなくとも、理性だけでもいいから愛を実行せよ、とキリスト教は教える。心と行動は違っても仕方がない。せめて心と行動とは裏腹でいいから、相手に優しくせよ、と教えているのだ」
「宗教の違いを超えることは、人間的な礼儀である。相手の信仰を何かのために使うことではない。相手の考えや信仰の対象に対して尊敬を払い、その人の心の安らぎを乱そうとは思わないから、私たちはできるのである。」
「根本のところでは立場の違いはある。…かなりものの考え方が違う。違いはあくまで礼儀正しく認め合えばいいのだ。」

さまざまな考えを持つ人の中で生きている。身近な小集団ほど人間関係は狭い。
そんなとき私のように感情が顔に出やすかったり、あまりに主観的な立場や考えを示していると、どことなく不平不満の裏返しに受け取られかねないし、不快感を与えるかもしれない。
嫁いだころ、義母はよく「出しゃばったらあかん」「後ろで見ていたらいんや」と小言めいたひと言をくれたものだった。右から左だった人間でも少しずつ、「わたしは」「わたしは…考えます」とは控えることを身につけていった。
むろん、どのような場でも言うべき時は発言している。思ったこと、感じたこと含めて。
心の内には思っていてもそのように行動、実践できないこと(とき)はある。
だから曽野さんからいただいた言葉は、言うならタカラモノ。
ただ曽野さんはこうも言われていた。
「どこかに欠陥がある体に耐えることは、凡庸な自己修行法だと思える」って。
体を「性格」とも置き換えて、心に刻んでいる。
大切なことは、心にしまうだけでなく、考えていることを自分の生活の上に証していくことなのだと思っている。
同じキリスト教徒として(亡夫が)
小説は読まない人でしたが、早くからたくさんの本がありました。
昭和6年生まれの私と同年齢です。
老衰と報道にありましたが、ショッキングでした
大切なことは、心にしまうだけでなく~>の件は同感と思いつつ、難しいことと思いました
ご冥福をいのります。
私は二十代三十代は曽野綾子さんの本を貪るように読んでいました。作品はかなり持っています。考え方にも影響を受けました。最近では老いについての考え方にも、同感しておりました。とても寂しく思っています。