「一人の若者が銀座の大通り、路面鉄道を歩いている」
若者のいでたちは、「頭に短いツバの帽子をちょこんとのせて…襟を詰めた白いシャツ、膝下までの七分ズボン、ゲートルを巻いたようなソックスに革靴」である。
若者の姿を見つけた東京大学予備門の同級生が声をかけた。
「ノボさん。どこに行きますか」
「おう、あしはこれから新橋倶楽部のべーすぼーると他流試合に出かけるんぞな」
通称ノボさん、21歳の秋。

佐伯一麦さんのエッセイ「子規庵にて」(『月を見あげて』収)を読んでいて子規の辞世の句に触れた。一方では、べーすぼーるに夢中なノボさんこと正岡子規の若き姿をとても気持ちよく読み始めていたただけに、長く病床に伏す日々を想って心に沁みる。
庵の庭は「小園の記」にあるように〈ごてごてと草花植えし小庭かな〉の趣だったが、植物や集って来る虫たちの中に病弱の身を置くことで生命力を掻きたてようとしたことが窺われた、と佐伯氏は書いている。

「小園の記」のコピーが手元にある。
1年間軍に従い、帰途に病を得て療養ののち家に帰りついた。病が進むなか、「小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」と書く。
蝶がひらひらと舞うさまに「我が魂」を重ねたり、欲しかった葉鶏頭の芽が育ち二尺ほどになって、「かゝやくばかりはなやかな秋」を迎える。
ノボさんは「あざやかで美しいものを好んだ」。
正岡子規の辞世の句となる三句を引いておこうか。(9/19は糸瓜忌だった)
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水もとらざりき

伊集院の作品には香りがあり、人がいる。
そんな言葉に誘われて、『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』を読み始めたのだぞな
若者のいでたちは、「頭に短いツバの帽子をちょこんとのせて…襟を詰めた白いシャツ、膝下までの七分ズボン、ゲートルを巻いたようなソックスに革靴」である。
若者の姿を見つけた東京大学予備門の同級生が声をかけた。
「ノボさん。どこに行きますか」
「おう、あしはこれから新橋倶楽部のべーすぼーると他流試合に出かけるんぞな」
通称ノボさん、21歳の秋。

佐伯一麦さんのエッセイ「子規庵にて」(『月を見あげて』収)を読んでいて子規の辞世の句に触れた。一方では、べーすぼーるに夢中なノボさんこと正岡子規の若き姿をとても気持ちよく読み始めていたただけに、長く病床に伏す日々を想って心に沁みる。
庵の庭は「小園の記」にあるように〈ごてごてと草花植えし小庭かな〉の趣だったが、植物や集って来る虫たちの中に病弱の身を置くことで生命力を掻きたてようとしたことが窺われた、と佐伯氏は書いている。

「小園の記」のコピーが手元にある。
1年間軍に従い、帰途に病を得て療養ののち家に帰りついた。病が進むなか、「小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」と書く。
蝶がひらひらと舞うさまに「我が魂」を重ねたり、欲しかった葉鶏頭の芽が育ち二尺ほどになって、「かゝやくばかりはなやかな秋」を迎える。
ノボさんは「あざやかで美しいものを好んだ」。
正岡子規の辞世の句となる三句を引いておこうか。(9/19は糸瓜忌だった)
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水もとらざりき

伊集院の作品には香りがあり、人がいる。
そんな言葉に誘われて、『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』を読み始めたのだぞな
確かエッセーだったかと。なんでもみな忘れてしまって。
正岡子規は「坂の上の雲」原作も読みましたが
ドラマ化でその壮絶な日々を知り、
わすれられません。
病床にあって、最後まで先進的な俳句を詠み続けたました。
↓萩は残念ながら「偽萩」しか知らなくて。
花は似ていますか?
我が庭の偽萩ではとてもとても秋は感じられません。
感じるのはストレスだけです。
もうはるか昔?ずいぶん以前の事ですが、『ねむりねこ』は好きでした。
『ノボさん』は伝記小説と言えそうです。
著者が子規と漱石の人生をどうとらえておられるのか、
楽しみながら少しずつ読んでいます。
「坂の上の雲」は私もテレビで見た記憶がありますが、内容はあまり覚えていません。
山手線鶯谷はいつも通過駅で降りたことがありませんでした。
子規庵を訪ねてみたいと思うのですが、機会があるかどうか。
偽というだけに、小さな花は似ているようでもありますが、
枝ぶり、葉の色も繁りようも萩は豊かですね。
花の色にも深みがあるような…。
ストレス解消にも早く手を入れていただけるといいですね。