
1本の山桜を目指して山道を歩いた。
シャガの花が咲き、ヤマブキが黄色く点々と道沿いに映える。落下の椿が赤い。ここでもオニグルミの冬芽はほころびかけていた。
雲ケ畑へと通じる道なのだが、昨日は“この桜”を目的に、それは市中の花見の喧騒を避けたい思いにも重なるが、身も心もかいほうだぁと自然を満喫した。


ハルノ宵子さんの『隆明だもの』が、吉本隆明への関心を小さく呼び起こしてくれている。
『最後の親鸞』の編集に携わった春秋社の“名編集人”小関直さんへの追悼や思い出話にも触れた。


中島岳志氏の話が記憶にある。
オウムによる地下鉄サリン事件が3月にあって、その年の夏ごろ開催の講演会に参加したときのことが書かれてあった。
当時、吉本氏は麻原彰晃の思想を一部評価した過去の文章を巡って、パッシングを受けていた。
生意気な20歳だった。「『親鸞は悪人正機説を説いたが麻原も往生できると言うでしょうか』と質問用紙に書いた。どうせ答えない、答えられないと思っていた。
けれど質問を読み上げて、少し間を置くと「往生できるでしょう」と答えた。
極めて誤解を受けやすい話にも真正面から全身で問に答える。理屈ではない、「思想家の凄み」にしびれた。態度に圧倒された翌朝、書店が開くと同時に『最後の親鸞』を買い、一気に読んだ。
という箇所をよく覚えている。
『吉本隆明 質疑応答集①宗教』の収録は、〈『最後の親鸞』以後 ■1977年8月5日〉
から始まっている。
吉本氏には一読者として傾倒する何人かの文学者がいたが、どう考えているかを切実に知りたい状況、事件においても見解は公表されず、沈黙したままだった。失望していった。そんな体験がひそかに決心させたという。
「わたしは、わたしを知らない読者のために、自分の考えをはっきり述べながら行こう」
「たとえ状況は困難であり、発言することは、おっくうであり、孤立を誘い、誤るかもしれなくとも、わたしの考えを率直に云いながら行こう」と。
「私の判断や理解の仕方を知ることができるはずである」
四方八方から、あらゆる質問が飛んできて、それに間髪入れずに答えていく。質問の趣旨が分かりにくいときは何度も問い返し、
「そうかだいぶ分かってきました。あなたの質問される核心が分かってきました」
と質問を解きほぐしていかれたと。

どこまで感応できるかは、それこそ読む人の「面々の御はからい」(『歎異抄』)。
こんな言葉も解説文に見いだす。
明日は寺子屋エッセイサロンがある。話して考えてみようかな。
自分の考え方が誤ることはあるだろう。でも誠実な態度で自分の意見、見解を述べる(書く)ことの大切さ、必要性。
相手の思いがどこにあるのか、わかろうとする想像力や聞く耳も求められることとか…。
〈大人だって未完なのだ〉。先日何かの案内文書で目にしたが、読み暮れて、空手で戻ってもそれでいいのだ、だったな。
「人間ってしんどい…」
そうですか、山桜になって時季にはただ静かにその花を咲かせていたい
…と思われたのですね。
寿命が来てたとえ朽ちても、新たないのちの養分となって、再生するんだなあなんて思いました。
あれを見よ 深山のさくら咲きにけり
まごころ尽くせ人知らずとも
箱根の関所にあった歌碑にこう刻まれていたそうで、
「生き方を私に教えてくれた」と松原泰道さんが書いておられました。
りりんさんの思いの先、…こんなふうに生きていきたいですねえ。
喧噪を離れ、一人春の野を歩き桜に会いに
いいですね~
実は桜の中でも一番好きなのが山桜なんです。
この1月、地震があったり飛行機事故があったり
何故かメンタルが弱くなった時、人間ってしんどいな~と。
今度生まれることができるなら、人間じゃなくて
何がいいかな~眠れない夜に考えてました。
出た答えが「山桜」でした。
薄く萌え始めた木々の中に薄桃色の山桜が
誰にも愛でられなくても、毎年この場所でひっそり咲く
そんな山桜になりたい
その光景を思い描きながら眠りにつきました。
歩いている人は滅多にいません。走っている人がたまにいます。
思想的なことには、人それぞれに価値観の相違もあって、向き合い方を問われれば、
肯定できない、理解も共感もできないということは生じてきますね。
隆明氏の判断の仕方、理解の仕方に、わかるわからないは置いといても触れていくつもりです。
寺子屋エッセイサロン>お若い方もおられるようですから
お互いが切磋琢磨、双方に大きく得られるものがありましょうね。
麻原彰晃の思想を一部評価した過去の文章>評価は私にはできませんが
当時最高学歴、しかも超エリートと思われる若者が
なぜ入信したのでしょう?
私には謎ですが、当時の社会情勢が関わっているのでしょうか?
桜の花びらに座るルーカス君
サッカー少年に成長されましたね↓