気温も上がり、一日青空が広がりました。
窓をあければ
風がくる、風がくる、
光った風が吹いてくる。
「風」 新実南吉
春の訪れの気配を感じながら、素直にまっすぐに心に入ってきます。口ずさめる詩です。だから好きです。
「もう春かもしれない」 M.A
もう春かもしれない
風が林を吹き渡り
木々を揺さぶり鳴らすとき
心もゆれてざわめいて
幼い記憶がよみがえる
もうすぐ家が建つはずの
空地で遊んで見つけた宝
青い草の実 瑠璃のよう ・・後略
長くって、ひたすら続くこの調子。このあと16行目に、もう春かもしれない と結ばれ終わります。
書かれた言葉と読み手とのすき間でイメージが生成されます。でも、その言葉にひっかかり、呼吸が合わないまま、しっくりいかずじまいで終わることが多くて、私は現代詩というものをほとんど読むことがありません。読んでみても「読めない」、ということです。
「太田垣連月のこと」と題した文章だけが読みたくてある冊子を買ったのでしたが、収められていた詩はオール降参です。
で、今日はこの関連であるお寺さんへ。富小路通を四条通から下がって、綾小路通を東へ寺町通りまでまっすぐ歩きましたら、前方に大きな鳥居が見えてびっくり。この方向から見たことなく、参拝もしたことなく、京都大神宮だとわかりました。一本の幹から紅梅と白梅が咲いているのです。何枚か奉納されていた絵馬には漫画のキャラクターのような絵が描かれ、縁結びを祈願。帰宅後、ふっと気付いたのです。この梅の木にあやかって縁結びの願掛けがあるんだ、と。 訳の分からないことを考えあぐねる頭では、現代詩などは不案内です。
氷を割り雪を割って芽生えがある頃、軒に落ちる雨だれの音にも生命をつゝむ母体と希望があります。
こんな時 人はだれでも詩人になるのです。― と六郎さんが言います。(「春」)
私は好きですねー、こうした文章。
窓をあければ
風がくる、風がくる、
光った風が吹いてくる。
「風」 新実南吉
春の訪れの気配を感じながら、素直にまっすぐに心に入ってきます。口ずさめる詩です。だから好きです。
「もう春かもしれない」 M.A
もう春かもしれない
風が林を吹き渡り
木々を揺さぶり鳴らすとき
心もゆれてざわめいて
幼い記憶がよみがえる
もうすぐ家が建つはずの
空地で遊んで見つけた宝
青い草の実 瑠璃のよう ・・後略
長くって、ひたすら続くこの調子。このあと16行目に、もう春かもしれない と結ばれ終わります。
書かれた言葉と読み手とのすき間でイメージが生成されます。でも、その言葉にひっかかり、呼吸が合わないまま、しっくりいかずじまいで終わることが多くて、私は現代詩というものをほとんど読むことがありません。読んでみても「読めない」、ということです。
「太田垣連月のこと」と題した文章だけが読みたくてある冊子を買ったのでしたが、収められていた詩はオール降参です。
で、今日はこの関連であるお寺さんへ。富小路通を四条通から下がって、綾小路通を東へ寺町通りまでまっすぐ歩きましたら、前方に大きな鳥居が見えてびっくり。この方向から見たことなく、参拝もしたことなく、京都大神宮だとわかりました。一本の幹から紅梅と白梅が咲いているのです。何枚か奉納されていた絵馬には漫画のキャラクターのような絵が描かれ、縁結びを祈願。帰宅後、ふっと気付いたのです。この梅の木にあやかって縁結びの願掛けがあるんだ、と。 訳の分からないことを考えあぐねる頭では、現代詩などは不案内です。
氷を割り雪を割って芽生えがある頃、軒に落ちる雨だれの音にも生命をつゝむ母体と希望があります。
こんな時 人はだれでも詩人になるのです。― と六郎さんが言います。(「春」)
私は好きですねー、こうした文章。
友人が現代詩を書くのですが、どうしても
分らなくて、訊くと
「分らなくて良いのよ。感じたままで良いのよ」
と言われますが、それがまた分らなくて…。
全体の雰囲気で、なにやら読み取る…それもむずかしい。感想がなかなか言えないのです。
言葉の遊びに一人酔っているように感じることもあれば、
こ難しい世界を作っているなあと読み通せなかったり。
ストレートに心に響くものを味わえないことがほとんどです。
口ずさめるものがないと、耳にしました。
我が身を振り返り、自戒も…。
季節は人を詩人にするような(^^)
現代詩も色々ジャンルがありますねぇ
唱歌 J-POP の詩には なるほど〜と感じることもあります
酔わないように…見つめたいです
白梅紅梅は初めて見ました、素敵ですね。
「ごんぎつね」は読みましたがこの詩は知りませんでした。
この夭折の詩人は準地元です、
研究会のような、読書会?のようなものがあります。
生家にも行きました、
新美南吉記念館は田園風景の中に建っています。
そのあたりは南吉も歩いたようです。
表されているはずの心が、感動がしっくり響いてこない、そんな言葉の表現に一歩も二歩も距離を置いてしまいます。
現代詩は苦手です。
谷内六郎さんです。 いかにも親し気に?まずかったかしら。
そうなんです、えっえっえ?と近づいてみました。
どうしてこうなるのでしょう。
終戦間もない頃、東京の飲み屋街でフツ―のおじさんが中也の詩を口ずさんでいたそうです。
「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」と。
今の書き手に一般の人が口ずさむような詩を書いている人はいない、
と日本現代詩人会会長さんの言葉が…。
感性のなさを棚に上げて、やはり時代を少し遡った詩人の心に触れることが多い気がします。