Luntaの小さい旅、大きい旅

ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで

50年前のムスタン

2012-06-06 12:00:12 | チベット文化圏
昨夏、ムスタンに入る前にポカラで買った本をやっと読んだ。

  Mustang, A Lost Tibetan Kingdom by Michel Peissel

カトマンズやポカラの本屋にはチベット関連の洋書がたくさんあって、しかも安いのでうれしい。

さて、この本、1964年にムスタンに単独で入り、ローマンタンに6週間滞在したフランス人人類学者の体験記。
旅行時にはまだ26歳だったとはいえ、チベット語を勉強し、ネパール政府から正式な許可を受け、さらにアムド出身のチベット人を同行しての旅なので準備は万端、無茶な冒険行などではない。

一読して驚くのはムスタンが50年前といかに変わっていて、かつ変わっていないかと言うこと。

一番変わったのはもちろんアプローチが楽になったことで、1964年にはポカラからジョムソンへの飛行機などもちろんなく、自動車もカトマンズ以外にはなかった。だから我々が土砂崩れで四苦八苦したとは言え一日でカバーした行程を、当時は10日もかかっている。

しかしジョムソンからローマンタンへの道は本の記述からするとほとんど変わっていない。
今は峠を除いては車が走っているくらいなので道路はいささか整備されているかもしれないが、道筋は変わらないと見えて沿道の景色は昨夏見たまま。
違っているのはそこを大量の西洋人が歩いているということだ。

ローマンタンの町にも今や外国人旅行者が大勢滞在し、電気はつくし、電話も通じる。
50年前には住人は西洋人などまったく知らず、フランス人の著者を中国人かネパール人と思ったという。

しかし城壁の中の家々の様子はまったく変わらないし、朝に家畜を放牧し、昼間は町の中でマニ車を一日回したり、毛糸を紡ぎながらおしゃべりしたりという住民の様子も驚くほど変わらない。

著者は情報から遮断され、近代的な教育を受けていないはずの現地人たちの冷静で合理的なものの考え方を称賛しているが、確かにチベット方面に行くと同じように感じることが多い。
チベット仏教は非常に論理的な哲学だし、特にムスタンは交易で栄えた場所だからよそ者が想像する以上に外の情報には通じているのだろう。
秘境の人間は考え方も遅れているだろうというのは「先進国」の人間の偏見以外の何物でもなく、むしろ厳しい環境で生き抜く人々の方がはるかにしっかりした考え方をしていると思う。
だからこそローマンタンの生活は現代的な便利を受け入れつつ、根本は50年前と変わらず泰然自若としているのだろう。

この本には謁見させていただいた王様も若い王子として登場する。
著者の滞在中に大病を患い、著者が不用意に与えた薬のせいでやきもきすることになるのだが、もちろん50年後もご健在なことはわかっているので「へえ、あの王様がねえ」と笑って読んでいられる。

ところで1964年というとチベットからダライラマが亡命をしてからわずか5年後。
ということでムスタンにはチベット本土のカム地方から逃げ込んできたカンパ・ゲリラが大勢キャンプを張り、おそらくはアメリカの援助を受けて目と鼻の先の国境を挟んで中国軍と対峙している様子が生々しく出てくる。

もともとカンパは盗賊などとして悪名高い存在なので、ムスタンの中でも家畜を盗んだり、放牧場を占拠したりして地元民に恐れられている。だからチベットのために戦っているとはいえ決してウェルカムな存在ではなく、ムスタンの有力者の中には中国側と意を通じている者までいる様子が実にリアル。

そしてさらにリアルなのがそのムスタン人の言う「中国はいずれジョムソンの先まで自国領として占拠するつもりだ」と言うセリフ。
ムスタンからカンパ・ゲリラはいなくなったが、50年前の中国の意志は今もまったく変わっていない、どころかさらに強くなっていると感じた昨夏のムスタン。
今や武器ではなく、札束でそれを実現しようとしているのじゃないか。

50年と言う時間の長さというか短さを思いつつ、またムスタンに行きたくなってしまった。


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モロッコ周遊 6 ティネリール~ワルザザード

2012-06-02 01:56:02 | 中近東/北アフリカ
4月30日

朝、ホテルの屋上テラスから外を見ると道路の向こうに市場が広がっている。
 
いかにもローカルな日用品の市場のようでそそられるが、残念ながら我々は出発しなければならない。

ティネリールの中心街を抜けて北へちょっと標高を上げると
  
このあたりは谷筋にだけ緑の帯と土でできた村々があり、回りは荒涼とした山であることがよくわかる。
 
緑の畑では何が作られているのか。

緑のオアシスを見下ろしながら小一時間ほど走ると岩山がまじかに迫るトドラ渓谷に入る。
 
ほとんど垂直に切り立った崖はどれくらいの高さがあるのか、両側から迫るので空が狭い。

  
「地球の歩き方」にはこの渓谷の中は河原道とあるが、現在はきれいに舗装された道が崖下のレストランの所まで300メートルほど続いている。だがこの道もつきあたりまで、その先にもフェズへ通じる道があるが4WDでしか行けない難路だそうだ。

 
トドラ渓谷で少し散歩をしたらティネリールまでまた戻る。

この町はベルベル人が多いそうだが、
 ここの女性たちはみな片方の肩から大きな白い布をかけている。なにか特別な意味でもあるのかと思ったら
  
日差しが強くなった時に頭からかぶるためらしい。なるほど実用的。

 なにしろ町を一歩出たら周りは荒涼とした乾燥地帯なのだから。

ティネリールからワルザザードまでの道はカスバ街道と呼ばれているが、どこも川筋にだけ緑があり、土でできた家が並ぶ。
 

この街道沿いにエルケラアムグナと言う村があり、バラの栽培で有名だということで、なるほどバラ水を売る店がたくさんある。しかし時期のはずなのに回りの景色にそれらしい花は見当たらず、そのうち村も外れたところの店にようやく車は止まった。
 バラ水を作っているところでも見せてもらえるかと思ったがただの土産物屋でがっかり。
  
しかしバラのエッセンスを使った製品の品ぞろえは豊富で、パッケージは垢抜けないもののバラの香りは本物。とても良い香りがする。

せっかく花の季節に来たのでやはりバラが咲いているところが見たいと言うと、今通り過ぎてきたところにいくらでも咲いていると言う。
ではもっとしっかり見ようとドライバーに引き返してもらい、畑の所で停めてもらうと
 普通の畑の生け垣が実はバラの木。
  
よくよく見ればなるほどいっぱい花が咲いている。
本物のダマスクローズなので園芸種のような派手さはないが、畑の中の小道に入りこむとあたりはバラの香りでうっとり。
やっぱり引き返してもらってよかった。

バラの香りを堪能しているうちに昼もだいぶ回り、やっとワルザザードの町に到着。

まずは昼食を、と連れて行かれたのはこの町のカスバの前に建つレストラン。
  
いかにもツーリスト向けで、カスバが見えるテラスはすでに欧米人でいっぱい。
中庭のテーブルについてはみたものの、メニューは相変わらずのタジンとクスクスしかなくて、もっと軽いものが食べたいと言っていたのに、とぶんむくれる。
しかたないのでサラダとスープだけオーダーしたが
  
スープは羊好きの自分でさえ辟易するほど羊臭くておいしくない。

「このレストランに連れてくるよう言われているから」とドライバーは弁明していたが、こんなことなら途中の町の屋台にでも強制的に停まらせればよかった。

とむくれてばかりいてもつまらないので、気を取り直して道を渡ったところにあるタウリルトのカスバの見学へ。

 17世紀に作られたという城砦だが、見学できるのはグラウイ家というこの地方の有力者が20世紀初頭に再建したという部分。

  
いかにもカスバと言う外観は修復され過ぎている気もするが壁の模様がきれい。

大きな建物の中には部屋がたくさんあるものの、ほとんどはがらんとして何もない。
  
 

 
天井のきれいなこの部屋と
 最上階の部屋に装飾があるぐらい。

しかしたくさんある窓のアイアンワークがどれもかわいくて
  
  窓フェチにはちょっとたまらない。

 窓の外にはコウノトリのお屋敷も見える。 

ところでこのタウリルト・カスバ、かなり好きな映画「シェルタリング・スカイ」のロケに使われたとのことなので楽しみにしていた。が実際に見てみるとちょっと想像していた場面とはちがうみたい。
もちろん映画の編集技術もあるだろうし、何より自分の記憶が一番怪しい。
もう一度映画を見直してみなければ。


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コメント (6)
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