文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

書評:えーっ! これ、言い間違い!? (知っていないと恥ずかしい日本語)

2014-02-09 11:21:44 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
えーっ! これ、言い間違い!? (知っていないと恥ずかしい日本語)
クリエーター情報なし
飛鳥新社


 よく間違って使われる日本語を、本来の意味や使い方などといっしょに漫画で紹介した、「えーっ! これ、言い間違い!? (知っていないと恥ずかしい日本語)」(かおり&ゆかり:飛鳥新社)。

 歳の功のためか、知っているものもだいぶあるのだが、案外と誤解していたことも多く、なかなかためになる。一読すれば、話の種にできそうなものがたくさん見つかるだろう。双子だという著者のお二人の描く漫画も、ほのぼのとしたタッチでなかなか楽しい。
 
 ただ言葉の場合は、何が正しいのかというのは、なかなか難しい。同じ日本語でも、時代と場所で変化していくからだ。時代とともに変化する例としては、源氏物語のような古典文学と現代の小説を比べてみれば良いだろう。言葉の時間変化を間違っているというのなら、今でも、「とっても可愛らしい」というのを「いとかなし」なんて言わないといけなくなってしまう。

 もっと卑俗なところろでは、若者たちが良く使う「ヤバい」という表現がある。これは、元々「危ない」といったような意味で、あまりまっとうな事をしていない人たちの間で使われていたスラングだったのだが、今の若者は、「すごい」事を表すための褒め言葉としても使うと言うから驚きだ。

 言葉の場所による変化の方は、方言をあげれば十分だろう。山口弁では、機械が故障する事を「破れた」という。例えば「冷蔵庫が故障した」ことを「冷蔵庫が破れた」というのだが、これを他の地方の人が聞くと、冷蔵庫に穴でも開いたのかと思うらしい。でも、方言が正しい日本語でないと言われると、地方の人は怒ることだろう。

 結局、言葉というのは、あるコミュニティの中での約束事でしかないのだ。だから、犬のことをこれから「ほじゃほじゃ」と言おうとするのなら、コミュニティ内でコンセンサスさえ得られれば良い。「世論」の読み方も本来は「せろん」なのだが、間違って「よろん」と読む読み方が社会に定着してしまい、今はどちらも辞書に載っている。

 だから、本書にある「正しい」使い方というのは、本来はこうだと言う位に考えた方が良いかもしれない。もしかすると、あと何十年後には、本書にある間違った使われ方が、堂々と辞書に掲載されているかもしれないのだから。 

☆☆☆☆

※本記事は、「本の宇宙」と同時掲載です。

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書評:アインシュタインの宇宙 最新宇宙学と謎の「宇宙項」

2014-02-08 20:35:49 | 書評:学術教養(科学・工学)
アインシュタインの宇宙 最新宇宙学と謎の「宇宙項」 (角川ソフィア文庫)
クリエーター情報なし
角川学芸出版


 古典物理学と呼ばれる力学、熱力学、電磁気学は、19世紀には完成しており、かっては、これらを使えば、世界のあらゆることは解明できるかに思われていた。しかし、古典物理学には様々な問題が立ち塞がる。そこから、量子論、相対論が生まれてきた。現代の自然科学は、この二つの基礎の上に築かれたと言っても過言ではない。この2つの理論に大きな貢献をしたのがアインシュタインである。

 1905年は、まさに奇跡の年であった。彼が立て続けに発表した3つの論文、すなわち光量子仮説、ブラウン運動、特殊相対性理論は、その後の物理学の発展に大きな影響を与え、現代物理学の基礎を固めるものだった。

 光量子仮説は、量子力学の基礎となるものだったし、慣性系のみの理論である特殊相対性理論は、彼の手で加速度系も扱える一般相対性理論に拡張された。この一般相対性理論こそが、宇宙を記述するためのアインシュタイン方程式を与えるものである。まさに、アインシュタインこそ、20世紀における物理学界最大の巨人なのだ。

 本書は、アインシュタインの業績を核に、ブラックホール、宇宙の膨張、ビッグバン、大統一理論、宇宙創成のシナリオ、アインシュタインの宇宙項の復活などの様々な興味深いテーマを展開している。

 アインシュタインが、これらの理論の発展に直接、間接に大きな貢献をしていることは疑うべくもない。しかし、その一方では、宇宙は静的であるという信念にこだわるあまり、後進の学者たちを結構困らせていたようだ。例えば、フリードマンが導いた、宇宙が膨張したり収縮したりするという可能性を認めなかったし、ルメートルの算出した膨張宇宙の可能性に対しても、手厳しい評価を下している。他にも量子力学の確率的解釈を認めようとしなかったり、ブラックホールの可能性も否定しようとしたりと、困ったおっちゃんぶりもかなり見せている。だからと言って、それでアインシュタインの偉大さが、否定されるわけではないのだが。

 本書は、文庫版だが、かなりの盛りだくさんな内容である。よほど現代物理や宇宙論に詳しい人でない限り、すらすらと読むことは難しいだろう。しかし、だからこそ、知的好奇心を刺激されることは間違いない。この内容を、理解しておけば、星空をまた違った目で見ることができるのではないだろうか。

☆☆☆☆☆

※本記事は、「本の宇宙」と同時掲載です。

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書評:炎と茨の王女

2014-02-07 21:46:14 | 書評:小説(SF/ファンタジー)
炎と茨の王女 (創元推理文庫)
クリエーター情報なし
東京創元社


 美しい少女のイラストが目を引く、「炎と茨の王女」(レイ・カーソン/杉田七重:創元推理文庫)。こんな可愛らしい女の子が、この作品の主人公かと思って読み始めると、きっと読者は戸惑いを覚えることだろう。

 なにしろ、主人公のルセロは、オロバジェ国の第二王女ながら、無類の食いしん坊。かなり横に広がった体形のようだ。姉は美しいのに本人はまったく容姿に自信なし。しかし、戦略書を一冊暗記する位読みこんでいるうえに古代語にも堪能。ただものではない予感を抱かせる。

 そのうえ、彼女には、他の人に無い物がある。臍にゴッドストーンを帯びて生まれたということだ。ただし、誰もこれがどういうことなのかを知らない。 

 そのヒロインが、隣国の王・アレハンドロと結婚。ところが彼の国への道中、敵に襲われ、いきなり侍女が死亡する。正に、波乱の幕開けだ。結婚した王は、イケメンだけが取り柄。ヘタレで優柔不断でおまけに愛人持ち。なぜか、ルセロと結婚したことは秘密になっている。

 ルセロは、アレハンドロの愛人である女伯爵の領地に滞在している時に、ゴッドストーンを帯びているために、砂漠の民に拉致されてしまった。ところが、ここから王女の大冒険が始まる。砂漠の民はすでに敵との戦乱の中にあった。王女は、そこの民たちから信頼を得て、悪霊団を組織し、敵と対決することになるのだ。

 この体験が王女に大きな変化をもたらすことになる。巨大だった体は砂漠の生活の中で引き締まり、見違えるように美しく大変身。ここでやっぱり表紙イラストの少女は、ヒロインだったと納得するだろう。どの位美しくなったかというと、結婚した王と再開したときに、彼女と気が付かず、鼻の下を伸ばしているほどだ。

 もっと変わったのは内面的なところである。自分に自身がない代りに、体重だけはあった少女が、敵との戦いの中で逞しく成長していく。これはそんな物語なのである。久しぶりに面白いファンタジーを読んだ。続きがまだあるようなので、今から発売されるのが楽しみである。

 ところで、ルセロ、自分に最初の頃から友情を示してくれたヘクトール卿に、「美しい王妃になられて」と言われたときにこう答えている。

 「一か月、二か月、焼き菓子を食べ続けてれば、また元の黙阿弥」

 いや、このままダイエットを続けた方が良いと思うぞ(笑)

☆☆☆☆☆

※本記事は、「本の宇宙」と同時掲載です。

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書評:カンニング少女

2014-02-06 21:12:39 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
カンニング少女 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


 表紙イラストのかわいらしさに、殆どジャケ買い状態の「カンニング少女」(黒田研二:文春文庫)。

 主人公の天童玲美は、都立高校に通う女子高生。受験生だが、学校の成績はあまり良くない。ところが、急に私大の難関・馳田大学を目指すという。玲美の姉は馳田大学の学生だったが、少し前に交通事故死していた。玲美は姉の死に疑惑を感じ、何か知っていると思われる馳田大学の教授と助手(今なら助教)に接触したいというのがその理由だ。

 しかし、玲美の成績では、馳田は合格できそうにない。おまけに、嫌味な教師が、馳田を受けるなら、学年20番以内に入らないと卒業単位をやらないと脅す。ということで、彼女を応援する、親友の優等生愛香、インターハイ陸上選手の杜夫、工学系天才少年の隼人たちの助けにより、奇抜なカンニング大作戦が開始された。

 この超ハイテクを駆使したカンニング手法が、実際に可能かどうかは別にしても、なんとも奇抜で面白い。それにしても、この馳田大学、超難関という割には、出てくる学生も、受験生もバカばかりのような気がする。もしかすると、ここがバカボンのパパが卒業したという伝説のバカ田大学なのか。それとも、一流大学といっても、今はこんなものだという作者のアイロニーなのか。

 ところで、玲美の知りたかった真相。このオチで、人が死ぬような話を書くかなあと思ってしまう。しかし、最後は、玲美も自分の進むべき道を見つけたようで、めでたしめでたしといったところか。

☆☆☆☆

※本記事は、「本の宇宙」と同時掲載です。
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書評:舞台芸術への招待

2014-02-04 07:01:03 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
舞台芸術への招待 (放送大学教材)
クリエーター情報なし
放送大学教育振興会


 放送大学のテキスト「舞台芸術への招待」(青山昌文ほか:放送大学教育振興会)。演劇、バレエ、ダンスから能、歌舞伎、人形浄瑠璃など内外の舞台芸術について、歴史、特徴などについて解説したものである。

 舞台芸術というのは、値段が高く、敷居も高くというイメージがあるので、いくつかの例外を除けば、こRまで実際にもほとんど観たことはないし、これに関係する本も読んでこなかった。しかし、最近は歳のせいか、こういった方面にも興味が向いて、時折テレビで放映されている我が国の古典芸能に関する番組なども視るようになった。ただし、視ていてもなかなか興味が持続できないのではあるが(笑)。

 興味が持続できない一因として、その舞台芸術に関する知識が不足しているということが挙げられるだろう。今舞台で演じられていることの背景にはどんな思想が隠れているのか。この出し物の見どころはどういうところか。舞台芸術を楽しむためには、そういった事に対する最低限の知識が必要なのだ。

 本書は、放送大学のテキストとして作られたものであり、広義の回数に合わせて全部で15章に渡り、冒頭でも述べたように、多くの舞台芸術について解説している。最低限この程度知っておけば、舞台芸術を鑑賞する際の楽しみ方はずいぶん変わってくるのではないかと思う。

 ひとつ残念なことがある。本書は放送授業で使われることを前提としているためか、写真やイラストが殆ど入っていないのである。例外的に入っているイラストは、なぜかバレエの基本5ポジションを示したものだ。やはり、舞台芸術がどんなものかということを知るには、視覚に訴えるのが一番分かりやすいだろう。

 ともあれ、舞台芸術は知識だけ付けても、それだけではあまり意味がない。やはり実際に観なくてはいけないのだ。地方在住なので、なかなかそういった機会はないのだが、チャンスがあれば実際に観てみたいと思う。しかし、あのチケットの高さはなんとかならないものか・・・。 

☆☆☆☆

※本記事は「本の宇宙」と同時掲載です。

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書評:日本の物語文学

2014-02-03 18:47:12 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
日本の物語文学 (放送大学教材)
クリエーター情報なし
放送大学教育振興会


 放送大学のテキストである「日本の物語文学」(島内裕子ほか:放送大学教育振興会)。古来より我が国に伝わる様々な物語について、その概略、位置づけ、特徴などを説明したものである。

 日本の物語の歴史は、「竹取物語」に始まると考えられている。この物語が成立したのは9世紀後半から10世紀初頭と推測されているが、作者は分かっていない。本書は、この「竹取物語」から始めて、「伊勢物語」、「源氏物語」と続き、近世の「浮世草子」や「読本」までの広いジャンルをカバーしている。中でも「源氏物語」の比重は大きく、全15章のうち、3章が「源氏物語」の解説となっている。

 本書の特徴の一つは、これらの物語を、「宝物の獲得と喪失」という視点で読み解こうとしているところだ。例えば、「竹取物語」では、子供という「宝物」を得られなかった老夫婦が、かぐや姫という宝物を手に入れて幸福になる。しかしやがてかぐや姫は月に帰り、老夫婦は宝物を失ってしまう。この宝物は、「如意宝」とも書かれ、これの獲得と喪失による6つの「話型」パターンが提示される。こういった視点のフレームワークを持つことは、日本の「物語文学」ならずとも、内外の多くの作品を読む上で役に立つのではないかと思う。

 同じ日本語とは言え、古文で書かれた作品を読むのは大変である。そのため、我が国の古典はそれほど読まれているとは言えない。しかし、本書を読んで、すばらしいものが、まだまだたくさん埋もれているという印象を受けた。

☆☆☆☆

※本記事は、「本の宇宙」と同時掲載です。
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書評:独学という道もある

2014-02-02 08:54:55 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
独学という道もある (ちくまプリマー新書)
クリエーター情報なし
筑摩書房


 柳川範之氏の、「独学という道もある」(ちくまプリマー新書)。

 著者の経歴は、かなりの異色だ。現在は東大大学院教授(本書執筆時は准教授)だが、高校には行っておらず、大検を受けて、慶應の通信教育で学んだ後に、東大大学院に進んで学者になったのだから。

 柳川氏が高校に行かなかったのは、父親のブラジル勤務について行ったためだ。ブラジルの学校に行くと言う選択肢もあったのだが、ポルトガル語の問題もあり、ブラジルで一生生きていくつもりもなかたので、日本から持ち込んだ参考書等で独学を始めたという。

 大学についても、会計士になることを決めていたので、大学はどこでもよいからと、最初から通信制に決めていたそうだ。しかしそのうちに、経済学がだんだん面白くなり、東大大学院から学者の道に進んだ。 氏の勉強方法には、ノートは作らない、テキストは2回読む、問題集は、問題を解くためではなく、問題を把握するために使う等、色々と参考になることが多い。

 氏は、独学のメリットとして、自分のペースで進められることと、あまり人に聞かないでまず自分で考える癖がつくということを挙げている。最初のやつは、ともすれば怠けがちになりやすいということの裏返しでもあるのだが、2番目のことは大切だと思う。

 今はマニュアル人間が増えているという嘆きを聞く事が多い。マニュアルに書かれたことしかできず、応用が利かない。良く笑い話で出てくる、ファーストフード店で10人前くらいの注文をしても、「こちらでお召し上がりですか」と聞いて来るというのは、この典型例だろう。小さいころから塾に通って、自分の頭で考えるのではなく、何でもかんでも教えてもらう習慣がついてしまっているからだろうか。

 実験など、設備がないと出来ないものはともかく、テキストを学ぶだけなら、大学学部程度の学問は独学で十分可能だと思う。しかし、世の中では、独学ということを少し大げさに考えているように思える。たとえ、学校に通っていたにしても、勉強の肝心なところを本当に会得しようと思えば、そこは所詮は独学でしかできないのだ。人から教えてもらった知識だけ身につけても、歩くノートブックみたいなもので、そこには殆ど価値はない。

 日本では、就職の新卒優遇という変な風習があることもあり、学校を卒業して就職するまでは、多くの人間が決まりきったレールの上を走っている。しかし、人の生き方には、色々な道があるのだ。本書は、そのような人生の多様性に、改めて気づかせてくれる。

☆☆☆☆

※本記事は、「本の宇宙」と同時掲載です。

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放送大学単位認定試験

2014-02-01 18:30:01 | 放送大学関係


 今日は放送大学の単位認定試験だった。受験したのは「舞台芸術への招待」と「日本の物語文学」の2科目。前者は持ち込みは不可だったが2択で10問、後者は持ち込み可で4択が10問といった内容だった。

 前日に飲み会があり、昨日はかなりくたびれて帰宅したので、殆ど準備ができなかった。今日は試験なので、飲み会には本当は行きたくなかったのだが、色々と浮世の義理があり、なかなか思うようにはならない。

 持ち込み可の方はなんとかなるだろうと、「舞台芸術への招待」に試験開始までテキストを読む。昨日の疲れが残っているのか、今日もかなりへろへろだ・・・。 
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