マル鉄回顧録

鉄道写真・鉄道模型を始め、バスやトラックなど、乗り物中心のブログです。昔の写真はマル鉄鉄道写真館で再編集しています。

惜別、455系(東北篇)

2007-02-22 01:20:34 | その他電車
こんばんわ。
毎月恒例の鉄道雑誌発売週間となりましたが、気になる情報として東北線仙台を中心とする車輌置き換えに関するニュースが飛び込んでまいりました。何が気になるのかといいますと、私の母親の実家が東北ですので、何かとこの455系急行に乗る機会が多かったからに他なりません。「憧れ」と言うほどのものでなくて、実用的にこの車輌に乗車していましたし、デザイン的にも湘南色と違って「田舎に帰る長距離急行列車」のイメージがあり、愛着があったと言うことだと思います。

そんな彼らが、新車の投入により平成19年度中には姿を消してしまうというものです。おそらく、19年度中と言っても、置き換えに必要な車輌がそんなに多いものではありませんので、19年度も早いうちだろうということは想像に難くありません。

彼らの記録はあまり多くはありませんが、惜別の意をこめてその活躍のシーンをアップいたします。



昭和56年1月5日 東北本線 白坂~豊原 上り急行「まつしま・ばんだい」


昭和56年1月5日 東北本線 豊原~白坂 下り急行「まつしま・ばんだい」
この頃は既にビュッフェの連結は無く、グリーン車の帯も消されてしまっています。急行列車の風格が落ちてしまった頃でもありましたが、それでも堂々12両を連ねて走る姿は、現在の特急よりも重みがあって見えました。


昭和57年3月21日 磐越西線 磐梯町~翁島 上り急行「ばんだい」
日中線を訪れた帰りに寄った初めての磐越西線での撮影。当時はこの線も特急「あいづ」急行「ばんだい」「いいで」「あがの」「いなわしろ」など多数の優等列車運転されていました。身軽な6両編成の急行「ばんだい」も、郡山から「まつしま」「あずま」「いわて」などと併結され、12両になって上野を目指しました。



平成12年7月7日 磐越西線 広田~東長原 仙山色455系
東北新幹線の上野開業により急行運用が無くなった同系は仙台・福島・郡山を中心とした広範囲のローカル運用に着くようになりました。この塗色は本来仙山線用のものでしたが、銀色の電車の投入により仙台地区から追われ、磐越西線にまで姿を見せるようになりました。



平成12年2月6日 磐越西線 広田~東長原 磐西色455系
お馴染み磐越西線色の455系です。私個人的にはオリジナル塗装の方が好きですので、これはいただけません。しかし、同系にとっては、地味な普通列車の運用でも華やかに生きたいという主張だったのかもしれません。



昭和62年3月28日 東北本線 東大宮~蓮田 717系回送
生まれ変わった同僚717系を間に挟み回送するシーン。
「サロンなにわ」だかが関東を通過するという某誌の発表を受けて大勢のファンが待ち構えていたのですが、その時間にピッタリ来たのが彼らでした。その時はガッカリしましたが、今となっては貴重なシーンです。


今月は奇しくもRM誌とピクトリアル誌で455系が取り上げられており、資料的にも絵的にも満足が得られると思いますが、個人的な思いもありましたので、敢えて駄作をアップさせていただきました。

また、455系の他に、417系や717系までもがその運命をともにするということです。このことは個人的に大変残念なことではありますが、165系すら全廃になって久しいくらいですから、ある意味ここまで良く頑張ってきたと労いたい気持ちでいっぱいです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バスネタ 新宿駅にて(都営・京王)

2007-02-21 22:00:49 | バスの写真館
こんばんわ。
本当は有給をとって鹿島鉄道の平日写真を撮りに行こうと思っていたのですが、午前中に会議が設定されていたことを忘れていてやむなく出勤。せめてもの抵抗に半休をとりました。まっすぐ家に帰っても勿体無いので、新宿駅前でバスの写真でも撮ろうと、いつもは利用しない西口ロータリーへ行って参りました。
今まで間が空きながらも15年新宿を利用してきましたが、新宿でバスの写真は初めてでした。もっとも、以前は写真を撮るほどバスに興味があったわけではないんですが。
それにしても、初めての場所で撮るバスの写真も新鮮でいいですね。駅に来るバスは各駅ごとに営業所が違ったりするので、新宿駅も普段見かけないバスが来ます。ものの20分くらいの間に満足してしまったので、これで終了。
(私以外にも私の横でバス写真を撮っているおじさんがいました。)


撮影はすべて平成19年2月21日 新宿駅西口バスロータリーにて

これは品川営業所所属、ブルーリボン日野のHTでしょうか。ブルーリボンは浜松町で見慣れていたのですが、ライト周りの違いでかなり印象が変わります。


こちらは練馬営業所所属、富士重工製ボディーのようですが、型式は良く判りません。この型も今まで見たことが(記憶が?)ありませんので、新鮮に感じました。





2枚とも京王電鉄バスの三菱MP218。しばらく前に京王プラザホテルの前で回送車に出くわし、「どこに行けばこのMPが撮れるのか」ググッてみたのですが、全然分からずにあきらめていました。まさかお膝元の新宿に来ているとは・・・灯台下暗し・・・ですね。
しっかし、MP218はカッコいいですねぇ~。(個人的趣味の問題ですが。)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憧れの車輌たちVol11(クハ481ボンネット型:続篇)

2007-02-21 01:50:51 | 特急型電車(交直流・交流)
今日も更新が遅い時間になってしまいました。

憧れの車輌たち第11弾は、クハ481ボンネット型の続篇です。
第5弾のときにアップしきれなかったボンネット車の画像をアップいたします。




昭和54年3月 ボンネット型「にちりん」「有明」
中学の卒業旅行と称して当時の鉄道マニア系の友達と九州へ行ったときの写真です。コレは親を泣かしたと思います。
当時の記録があまり残っていないので、どこで撮った写真か曖昧です。(多分、「にちりん」は大分、「有明」は熊本だったような・・・。)
この頃の九州配属車はことごとくヒゲを消されてしまい、大好きだった赤スカート車も間抜けなスタイルに見えてしまってガッカリだった記憶があります。



昭和55年8月 大阪駅にて 急行「比叡」と並んだボンネット型「雷鳥」
この旅では、ある意味関西方面の貴重な車輌たちを捉えた最後の時だったかもしれません。山陰のキハ82系・キハ181系、関西の581系やボンネット型(主に北陸方面)、153系の急行と新快速、そしてEH10やEF66「とびうお」など、貴重な記録が数本のリバーサルとネガにギッシリ詰まっています。他の列車についても整理でき次第アップする予定です。



昭和54年?頃 蕨~西川口にて クハ489 0番台「白山」
前後のコマから昭和53~54年初頭頃の写真と推測されます。このような特急列車が1時間に片道で4~5本も走っていたのですから、銀色の電車ばかり走ってくる今日とは面白さが全く違いますね。



昭和61年9月 撮影場所不詳 両全頭をボンネット型で組成した「白鳥」
この年の6月に運転免許を取得し、中古車を買って早速東北大回り1周の旅に行ったときの写真です。メモが無くなってしまい撮影場所がわからなくなってしまいました。
「白鳥」は、長らく青森車の運用になっていたので、事故でもない限りボンネット車が充当になることはありませんでした。しかし、この頃になると運用が変更(新潟持ち?)になり、「白鳥」にボンネット車が使われるようになりました。もちろん、これを見逃すわけには行きませんでした。

地域によって時期は異なったようですが、貫通型や非貫通型に遅れていたイラストマークがボンネット型にも採用されるようになりました。でも、個人的な好みとしては、イラストマークよりも文字の大きいシンプルなヘッドサインの方が、ボンネット型のスタイル・塗色に似合っていたと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか?
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒸気機関車(山口線)

2007-02-20 17:43:29 | 蒸気機関車
今回は蒸気機関車の写真をお届けいたします。第1弾は山口線です。

私は、元々SLに興味があったわけではありませんでした。全国の旧型国電の消滅が報じられ始めた頃、西の方で旧型を撮ったことがなかったので、可部線73系、小野田線クモハ42、瀬ノ八のEF59の撮影と抱き合わせで山口線へ行ったのが、SL撮影の最初になります。昭和57年の10月のことでした。

各地での撮影を終えていざ山口線へ。何も解らないままひたすら撮影場所を求め歩きました。本数が極端に少ない山口線で、いつもの撮影と違う緊張を感じていたことを思い出します。通過の時間が近づき、山間から激しい汽笛と微かなドラフト音が聞こえてくると、今まで体験したことの無い空気に緊張は極限に達し、カーブから立ち上がってファインダーの中に映った黒い塊と爆煙で、頭の中は真っ白になり、手はふるえてしまいました。
言葉では言い尽くせませんが、初めてのSLはそれほどの感動とショック与えてくれたのでした。

当時、架線のない本線を走るSLはこの山口線だけだったので、まだ旧型国電の撮影が収まりきれないときでなかなか訪れる機会は出来ませんでしたが、それでも毎年1回くらいは出掛けました。
初めてのときはC581、2回目のときはC571+C581の重連、3回目もC581と、何故か確率の悪いC58のときに当たりました。それででしょうか、なんとなくC57よりC58の方が愛着があります。

初めてのときは、あまりにも緊張しすぎて悲惨な写真になってしまい、皆さんにお見せすることは出来ませんので、ご都合主義ですが、自分なりに良いと思っただけご披露させていただきます。


昭和58年5月15日 山口線 仁保~篠目間にて C58 1
何故かC58によく当たりました。このあと、C58もあまり長く走ることはできずにC56にバトンタッチ、梅小路機関区で静かに余生を送っています。



昭和59年8月19日 山口線 宮野~仁保間にて C57 1
これも私のベストショットです。
訪れた回数も少ないですが、山口線ではあまり納得のいく写真がないため、この程度しかご紹介できなく申し訳ございません。


私の記録では、最後に山口線を訪れたのは昭和61年の11月で、その後青函連絡船や北海道のキハ82系の廃止、D51498復活&磐越西線の冬運転、C623の復活とに駆け回ることになり、山口号の12系茶色化と相まって、山口線とは疎遠になってしまいました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憧れの車輌たちVol10(クモハ42系)

2007-02-19 01:35:43 | 旧型国電
憧れの車輌たちは、早くも第10弾を迎えました。今まで多数の方にアクセスいただき、大変有難く、そしてうれしく思います。折角今までにたくさんの写真を撮ってきたので、大事にしまっておくのも勿体無いので、出来るだけ多くの方にご覧いただき、また楽しんでいただければと思います。これからも、出来る限り続けていけるよう頑張っていきますので、皆様よろしくお願いいたします。

お願いなのですが、私ごと当ブログをランキングに登録しておりますが、出来るだけ沢山の方にご覧いただければと思いますので、お手数ですが「鉄道ブログ」のバナー(ボタン)をクリックしていただけるようお願いいたします。これは個人の利益とかそういうものではなく、只ここに「私のブログ」があることをできるだけ多くの方に知っていただき、見ていただきたいためのものですので、わがままなお願いですが、どうぞよろしくお願いいたします。

前置きが長くなってしまい申し訳ありません。

第10弾は、「クモハ42系」です。
私が旧型国電に興味を持ち始めたのは、高校生になる頃からだと思います。戦前型の電気機関車が退役して行く中で、同時に旧型国電が数を減らしつつあることを鉄道雑誌を買うようになってから知り始めたからかもしれません。首都圏でも、高崎(両毛線・信越線)や川崎(南武線・鶴見線)で旧型を見ることが出来ましたが、いずれも急速に淘汰され始めた頃でした。

ちょうどこの頃に見た鉄道雑誌に飯田線や身延線、大糸線の旧国が終盤を迎える記事があり、そこで見た「クモハ42系」に非常に惹かれることになりました。
「クモハ42」は、2ドアで側面にズラリと並ぶ小窓、前頭にパンタグラフを振りかざし、貫通幌枠をそなえ引き締まった前面に、戦前のスターの面影を見ました。
また、これとは対象に合いの子流電「クモハ53」は、戦前型とは思えぬ流美なスタイル、パンタグラフを後部に移しスッキリした前面、ウインドシル・ヘッダーの無い広窓が並ぶ側面にも、かつて関西急行として活躍したスターであったことを十分に語れる存在と思えました。



昭和58年4月17日 豊橋にて 165系と並ぶ「クモハ43013」
飯田線で最後まで残った「クモハ43」。出力をアップした同型のクモハ53もいましたので、2ドア車に出逢う機会は多くありました。「クモハ42」が既にいなかったので、片運でも同型が心の拠り所であったといえます。ちなみに、このとき既に80系が全廃になっており、すべて165系に置き換えられてしまいました。



昭和57年10月5日 小野田線本山支線 長門本山にて 折返し待機の「クモハ42005」
飯田線の「クモハ42」亡き後、最後まで同車が残った小野田線にて。個人の趣味ですが、私はスカ色で前面に貫通幌受けが付いた姿が好きだったため、小野田線の同車には物足りなさを感じていました。同車が最後の戦前型営業車として残るとは思いもよりませんでした。



昭和58年2月23日 伊那松島機関区にて 「クモハ53007」
実車を見て改めて惚れてしまいました。併結4連を組み滅多に見せない前頭部。このときに初めてこの前面を拝むことが出来ました。ホントにカッコいいです。
しかし、その後の活躍は長くは続かず、飯田線の旧型全廃を前に引退してしまいました。運用離脱後は浜松工場の留置線で、その前面を私たちに見せて「最後のお別れ」を告げていました。


私はトータルで旧型国電が好きでしたが、特にこの2型式には思い入れがありました。しかし、時すでに遅し、流電「クモハ52系」とともに「クモハ42型」は廃車となっておりました。また、「クモハ53007」も前頭側を併結面にされていたため、堂々と先頭に立つことは滅多にありませんでした。
そんな中、最後まで残った「クモハ43」や「クモハ53008」が先頭に立って元気に走ってくれたので、これを励みに飯田線に通うことが出来たのだと思います。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする