蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2020-04-15 | 無題
最近、ほんの少し、アクセス数が増えてくると、増えた人数も含めて、多くの人に共感を持ってもらおうとする、凡人で俗人のわたしの浅ましい魂胆が生まれる。

前は、本来の、誰に向けるでもない叫び(というよりは、ほざき?)を感じるままに発していた。
今はすこし、かしこまっている。
国会にTシャツで行く勇気もなければ、仮に敢行しても、居心地も良くない。
とか言いながら、大して変わってないと思う。
しかも行き先は国会ではなく、父母参観会か、自治会ご近所さん集会ぐらいかと。
自分が歳を取り、まるくなっただけかも知れない。

毎日、気分次第で好きなことをしていると、やるべきことが、今日もできなかった。
明日でいいかー、と、毎日、順延。
いったいいつになったらやるのだろう。
明日こそは、明日こそは、と毎日思っているのだが、自由まったり自主性が崖っぷちの悲惨な叫びに転じた頃に、ようやく着手するだろう。
まだまだあと一週間ぐらいは大丈夫だと踏んでいる。
この甘読みがある限り、あと二週間ぐらいは手をつけないような予感、、、

で、それはそうと、ブログをまたしつこくもう一本書こうかどうか、一瞬迷ったが、、、
庭仕事をした。
これは建設的な仕事とは言えない。
何故なら、舅(故人)は、現役で働いている時は休日に、リタイア後は、毎日毎日、食事以外の時間は黙々と一日中庭仕事をしていたが、舅がいなくなってから誰もする人はいなくなった。
妻(姑)も息子(夫)もなんの関心も示さなかった。
しばらくして芝生は剥がされ、姑の好きなお花畑になった。
やがて、姑は家を離れ、留守宅ではお花も世話をすることもなくなり、どうなるのやら、、、。
舅がかつて植えた水仙は手を加えなくても毎年、すきっとした花を咲かせる。
相変わらず、息子(夫)はなんの関心も示さない。
舅があんなに一生懸命、取り組んでいたのは、なんだったのだろう?
横道に逸れず気持ちよく働いてくれ、お金を稼ぎ、暮らしてくれたらそれで良かったのだろう。
趣味は自分のためにあるもので、周りの人にとっては、趣味が及ぼす本人への活力チャージ効果には応援するが、その趣味そのものにはなんの関心もない。
一生懸命さには賛同するが、対象物に関しては、こころ、魂は全然受け継がれていない。
夫は、草のひとつも引いたことがない。
庭を見ることも、知ろうともしない。
ただ、存在を知っているだけで、中身に触れようともしない。
わたしたちが住んでいる我が家の空きスペース(別名、庭)に雑草の苦情が出ようものなら、大量の除草剤を買ってきて、そこらじゅうドバドバ散布する。

わたしの実家も然り。
両親が熱心に力と愛情を注いで、先代が作った庭を広げ維持した。
仕事が始まる前のやたら早朝に出向き、時間を見つけては精を出していた。
まさに寝る間も惜しんで。
相当の時間と労力と資源とお金を費やした。
庭づくりは、建設的ではないが(プロ庭師の仕事や名庭は別として)、我を忘れて没頭し、喜びを得て、自分の職業である仕事に向けてこころの糧にするのは結構なことだ。

しかし、余裕がないと出来ない。
庭師よりうんと高い収入なら?
庭師と、どっこいどっこいなら?
庭師以下なら?
庭師どころではなく、うんと下なら?

庭師への賃金も、庭の維持も結構な費用がかかるので、それよりかなり上を稼ぐのは、なかなか大変だ。
だから、贅沢な趣味ということになる。
いつも思うが、わたしが具体例として出す、こういう発想は、どうも日頃あくせく汗を流していないのがバレバレだ。
安倍晋三さんの、Stay home!動画メッセージが、自宅でくつろぐ様子がやたら優雅でひんしゅくを買うように。
まあ、人には人の背景がある。
わたしは、首相ではないので、たとえリッチであろうが貧しい生活をしていようが、アホであろうがカシコであろうが、この際、関係ない。

話を戻す。
庭仕事が、単なる庭の草引きや、芝生刈りなら問題はないが。
どういう規模のものかによる。
昔の金持ちのステイタスで、他の人が持つのは良いが実際には最も要らないのは、別荘と妾だとか。
軽井沢の別荘は、高齢化した持ち主が今は売ろうにも買い手が無いそうだ。

舅や父は、庭が好きだった。
庭の規模に関わらず、昔の男性の特徴か?
テレビ番組「ぽつんと一軒家」に出てくる人々は、山と溶け合った暮らしをしているが、そういうのが夢だという人もいるようだ。
今はガーデニングは女性の趣味のようなイメージがある。
もちろん、花づくりや、庭づくりに熱心な男性もいる。
薔薇づくりは難しいらしい。

話が逸れている、、、。

趣味って、建設的でなくてもいいと、ふと思った。
趣味に没頭して存分に発散、燃焼することがよい。 
へんにエネルギーを持て余して悪い道に逸れなければそれでよし。
趣味そのものの完成度は問わない。
生産性のないスマホゲームもそう。

人の趣味にケチをつける気はさらさらないが、ちなみに、わたしは、ギャンブルが嫌いだ。
だからといってギャンブルをする人を否定したくない。人には人の道。
なので、ギャンブルする人を自分から遠ざける。
すると、目に入らないから、お互い干渉しなくてよい。
距離を取る。
今のところ、ギャンブルする人は周りにはいない。
ちょっと離れたところにいる、ある人は、ギャンブル好きだが、月決めお小遣いの範囲内だったらしい。

それと暴力を振るう人も周りにはいない。
以前はそんな人ではなかったのに、何かのキッカケで 振るうような人もいるだろう。
偶然なのかも知れないが、暴力と縁がなく、しあわせである。
誰だって暴力など振るいたくないだろうが、不幸な事が重なって爆発する。
不幸なことだ。
認知症の症状のひとつに、暴力もあるらしい。

自分の生活がこじんまりしているため、あまり危険にはさらされない。
ローリスク、ローリターン。
一歩間違えれば、不幸になるリスクは、世間一般の皆さんと同じ率で持っている。
自分ではどうしようもない災害、事故、病気、、、などだ。

自分で決めたもの、道には、ギャンブルや暴力はつきまとわなかった。
夫がギャンブル狂だとかDVだとかも、配偶者候補の人選から漏れてくれて良かった。

庭仕事が好きだとか、今時、そんな男性はなかなかいない。
わたしの親世代だろう。
時代の背景もある。
そう言えば、知人で園芸が趣味のリタイアしたシニア男性がいる。
園芸仕事に追われて疲れると、こぼしていた。
季節や天気に振り回され、体力がいる。

人に任せると、お金がいる。
庭の規模により、かなりの額になることもある。
美しいものを汗を流さず楽しもうというのはムシが良い。
なので、庭は、人様が手入れした、神社や公園の四季折々の自然美を堪能するのがいいなあと思う次第である。

戦後育ち、昭和世代のわたしは、舅や両親のようなガッツはないなあ、、、
たいしたこともしないので、行動を起こす活力源、エネルギーとなるものも知れている。
エネルギー蓄積のための逆噴射的な情熱を注ぐ趣味は必要ないようだ。
わたしは省エネ動物かと。
ただ、親世代が頑張って来た姿を目の当たりにして、親の成果を享受し、ギリギリ持ち堪えたものの、それを次代には継承出来ない不甲斐なさ、もどかしさはある。
右肩上がりの高度成長は、明らかに停滞し、上がりようがない。
次の向上の仕方は、なにも上がることではないのかも知れない。
維持すること?
維持も出来ないとなると、別のかたちに変えるか、または、リセットすることか。
次世代に負の遺産を残さないことか。
情けなく寂しく辛いが、それをしないと次世代が困る。
隆盛や衰退の、そういう線グラフの下降ボトム辺りに自分が置かれているようだ。
さらに下がることも考えられるが、損切りの英断も必要な時がある。

どっちみち、ふんわり風まかせ。
時代の風が吹く方を見ることになる。
資源は無限ではない地球の舵取りと似ている?