gooさんのユーザーサービス「アピールチャンス!」が来て、またまた安売り大バーゲンをしてしまった。
しかもアピールしたい記事はそれではなく、もう一つ前のだったのに、手抜き直近記事を咄嗟に焦って指で押してしまった。
焦るコジ○※は貰いが少ない。
(※差別用語になるのは避けたいため、伏せ字対応、、、そういうご時世か)
元々、どの記事でもたいしたことはないので、興行師が来たら、乗っかるしかない。(ごめん、gooさん)
全然、全く関係ない話なのだが、、、
グルメについて。
ある複数の男性。
全く味をみないで、まだ一度も食べたこともないカレーに、ドバドバと市販のウスターソースをかける。
ウスターソース、好きなのね、と。
これを自分が作ったカレーにやられたら、ショックだろう、、、が、似たようなことはどこにも日常的によくある。
本人には知らせず黙ってテストしてみた。
デパ地下の割と高めの巻き寿司と、スーパーの安い巻き寿司。
交互に変えたり、一緒に混ぜたりしても、全く気づかれない。
なあんだ、安いのでいいなあ、、、買って用意する側はそう思う。
そのほかにもいっぱい、そういうことはある。
舌ではなく、思い込みなのではなかろうかと。
絶対的なグルメ舌判定能力を持っている人が仮にいるとする。
多くの人々がその人に影響を受ける。
「あ、わたしもそう感じる、これは美味しくて、あれは、イマイチ」と。
余程のことでもない限り、美味い、不味いは、共通の味覚だろう。
あとは好み。
だが、10億人が「好きだ、美味しい」と感じても、自分はそうでないこともある。
グルメ達人の判定は、あくまでも参考にすればよいと考える。
自分がどう感じるか、だ。
当たり前、今さら書くことでもなんでもない。
だから、カレーにウスターソースをドバドバかけるのは非難も否定もできない。
その人が、そういう食べ方が好きなんだから。
その嗜好事実は変えられない。
変える権利もない。
長期戦で策略を練って変えさせることは多分できると思う。
したければ、すればよい。
わたしはそんな他人たちには興味がない。
食べ物の好みは本当に自分軸だ。
だが、好きだからと栄養が偏ったり高カロリーや塩分過多だったりして、健康を害することがあるが、自己責任である。
知人で大酒飲みで大グルメの方がいたが、早死にした。
でも良い人生だったのではなかろうか。
皆んなが、ああやっぱりな、と思うような「ジ・エンド」だった。
細く長くか、太く短くかは、自分で選択できる人はいい。
たいがいは、選択出来ずに、結果論となる。
グルメは、舌と脳の繋がりだから、あまり他人には見えない。
(蛇足だが、コロナウイルスで味覚がやられる症状もあるらしい)
それぞれ人によって味覚嗜好が違うので、他人がどう思うか、は、関係ない。
(食関係の仕事をしている人は大いに関係がある)
それに引き換え、ファッションは、他人に見えるから、本人がいくら好きで着ていても、他人がどう思うか。
まあ、どう思われようが自分が良ければよい。
だが、無理して自分は快適ではないが見た目を重視して頑張っているのに、全然カッコよくない、冴えないなら、頑張る苦痛は何?
どこで帳尻を合わせる?
(素敵なビジュアルなら、自分へのご褒美)
ご苦労様。
わたしは、やめました。
でも、自分なりの好みがある。
なんでもよいわけではない。
TPOはもとより、天候、気候、気分などに応じて自分が快適なものを選ぶ。
それもあれこれ結構めんどくさいのだが(なぜなら、自分がなかなかオッケーを出さない)、他人の目に映るその姿、ファッションはそんなに悩んで選んだようには全く見えない。
そんなものだ。
自己満足は、生きるモチベーションの一つである。
自己満足を得るためには、あれこれ試行錯誤をする。
時には他人の声に耳を傾ける。
全ては自己満足のため。
美味しいものも、美味しくないものも舌が判別できる。
だが、常に美味しいものを食べなければいけないわけではない。
不味くても食べる。(動物は皆そうだろう)
人生を豊かにするためには、より美味しいもの、美しいものを求めるのだろうが、わたしは、別にあまりこだわらない。
人生を豊かにする、、、基準は自分軸なので。
食べるものも食べず、寝食を忘れ趣味に没頭するのも豊かな人生だと思う。
自分が良ければそれでよい。
と、ここで終わるつもりだったが、、、
追加。
とはいうものの、自分の周りとあまりにも嗜好が違うと、神経がヒリヒリする時がある。
見ない聞かない、接しない、と呪文を唱えて、頭や目の前から消そうとする。
それって正しい対処法なのだろうか?
異質のもの、受け入れがたいものにも対応できる柔軟性、協調性が必要なのだろう、、、きっと。
一生、試練。
それも生きていく上には避けられないことの一つかも知れない。
て、相変わらず大げさ。