蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

怒りがMAXを超えると、どうなるか?

2012-08-18 | 日々のこと

今日は、めいっぱい用事、家事、家に関することをやった。

そのなかで、いつも、わたしが、胃にある何かが、食道から喉のあたりに、逆流しそうになる作業がある。
それは、大っっ嫌いな作業であり、
ありったけの力をふりしぼって、全身全霊、心身ともに抵抗を示し、吐き気をもよおすほど、苦痛を伴う。

それは、なにかと言うと・・・

散らかるだけ散らかり、散乱した、山のような夫の衣類、その他、身の回りのモノの整理整頓だ。
食事の世話は、わたしはもちろん、いつも、している。
わたしは、サービス係で、夫・専属の女中さんなのだが、
(注;質の良い善良な女中であると自負している。
しかも、若く、一度も結婚したことがなかった麗しの身だったのに、
どんぴしゃ、昔でいうところの、結婚適齢期内の年齢で結婚し、主【あるじ】の子供まで次々、産んだ)

最近、食事中、主は自分だけに必要なソースや調味料などは、自分で取りに行くようになり、たいした進歩を遂げている。
だが、桃や柿は仕方ないにしても、ブドウ、さくらんぼに至るまで、器に入れて洗ってサーブしなければならない。
自分では、絶対に、なにもしない。
女中は、ハッサクを剥くのが、皮が硬くて、いたって面倒だと感じている。
「一度ぐらい自分で、剥け」、と言ってみたいが、勇気がなく、陰険に陰で(ここで)愚痴っている。

フルーツを口に持って行く手前まで用意しないと、自分で準備しない主、
それも、わたしが、むっとしているなかで、大きいといえば、大きいのだが、
それは、別の機会に譲るとして、
今は、山のような衣類の話でありまして、・・・・・限界、MAXに近く、わたしはイラついている。


よく、「片付けられない女」などと、マスコミで取り上げられている。
ブログでも、その手のブログは、けっこう、よく目にする。
ゴミ屋敷の男性が、行政から強制執行で、ゴミを撤去されたりしているというニュースを見るが、
近隣住民は多大な迷惑をこうむっている。

先日は、深夜テレビで、イケメンの若い男子の、汚い部屋が紹介されていた。
「一人住まいの息子の部屋があまりにも汚いから、どうにか息子が心を入れ替えてキレイにするようにして欲しい」
という、お母さんから苦情の申し込みを採択し、
番組のなかで、レポーター役のお笑い系の人(梅ちゃんの同級生役をやっていた、メガネかけて、大きな図体の女性)が、
突撃取材みたいなかんじで、その男の子の部屋に突入していた。

それはそれは、汚い、最低の部屋だった。
ゴミが部屋中に散乱し、洗いものは、ほったらかし、食べた後も、ちゃんと始末しない、
お風呂やトイレも汚れ放題、布団も汚い。生活用品も、ぐちゃぐちゃ。
その汚い、狭い部屋に、友だちの男子が二人遊びに来ていた。
男の子って、あんなに汚いものなのか?  汚くても平気なのか?(あんなに可愛い顔して)

前置きが、非常に長くなったが、
わたしが、片付けなければ、夫の周辺は、ああいうかんじになるだろう。

来週明けから、ゲストを迎えるため、開かずの間である、夫の衣類などを置いている和室を片付けた。
開かずの間は、開かないから、「開かずの間」、という。
厳密にいうと、開けないのだが。

えいやっと、気合を入れて、襖を開ける。

なにしろ、6畳の間、足の踏み場がない。
通り道を確保するには、足で、衣類を押しのけるしかない。
とりあえず、自分が座るスペースを確保する。
ものすごい憎悪がこみ上げてきた。
わたしは、この夫に、どんなヒドイことをしても許されるような、
そして、膨大なこの借しは、どんなことをしても返してもらうことは、無理、と感じた。
この借しは、結婚以来ずっと続き、今後も死ぬまで続く。
そう思うと、女中でもあり、囚人でもあるような気になる。

とりあえず・・・・・
まわりの手の届くところから、ひとつひとつ、取り掛かる。

冬服、夏服、ゴルフ服、ゴルフグッズ、下着、靴下、帽子、タオル、バッグ、その他・・・
ダンゴになって、ごっちゃ煮になって、どけても、どけても、次から次から、下に何層にも重ねられて置かれている。
これが、バター生地なら、幾層も重ねると美味しいパイになり、
クレープ生地にクリームを挟んでいたら、しっとりミルクレープ、
パイ生地にクリームを挟んだら、さくさくミルフィーユ(ケーキ)になるのだが・・・。
そんなことは、ありえなく、
クリームのかわりに、ゴキブリやネズミの死骸が挟まっていないだけ、ましか。

なにしろ、怒りはMAX。
なんで、こんな男なのだろう。
母親が悪い。マザコンだ。自分でやらせろ。
なんで、こんなにまでして、放置した?
こんなに溺愛する息子なのに、いともすんなり、お嫁さんに息子を渡した。
「あとは、オヨメさんにバトンタッチ、ああ、やれやれ・・・」そうつぶやいた言葉は、
あれは、強がりでもなんでもなく、義母の本心だろう。

嫁のわたしも、夫を改造しそこねた。
見事に失敗した。
子供の教育や躾けに精一杯で、肝心の大の大人の教育も躾けもできなかった。
これは、わたしの不徳の致すところである。

しかし、腹がたつ。
あいつは、人間なのか?
自分の身の回りをこんなになるまで、ほっておいて、よくそれで平気なもんだ。
さらに、「○○さんの奥さんは、ゴルフの用意をしてくれるらしい。いいなあ」
とか、言う。
(ぬかす、とか、ほざく、とかいう言葉は、わたしは、やはり上品過ぎて、使えない)


いくら、片付けても片付けても、成果が現れない。
ゴミと、不用品を振り分け、おおまかに、仕分けして、衣類を丁寧に畳んだりしていると、
畳の半分ぐらいまでは、面積が見えてきた。
あとをどうしようか、ないアタマを絞った。
何で、セグメントするか?
季節は、最初に手をつける大きなくくりだが、あとは、使用頻度か、ジャンルか、新旧か、品質の高い、低いか・・・

新品の肌布団が入っていた、大きな紙箱をふたつ持ってきて、シャツ系衣類を入れたりして、工夫した。
ブドウが4キロ入っていた箱や、ミカン箱もフル稼働して、ゴルフグッズやらなんやらを区分けした。
だんだん、畳の表面が、どんどん見えてきた。

あと少し・・・というところまで来たが、これ以上は、コンパクトにならない、というところで、とりあえず、あきらめた。

その頃には、怒りの代わりに、疲労に、
でも、なにくそ、と続けているうちに、やがて、疲労の代わりに、達成感へと移行した。

夫が帰ってきたときは、不思議なことに、比較的明るい心持になっていた。
ゲリラ的雷雨のあとの、晴れ間みたいなものか。

が、これで、恨みや、怒りが、消え去ってしまったわけではない。
今回は、たまたま、片付けに熱中して、うまくいっただけだ。

明るい満月の夜ばかりではない。
いつ、ふいに、突然、復讐の刃が向けられるか、
月明かりのない、闇夜に注意せよ、夫よ。。。。

 

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 

 


 


豹柄  VS はてな柄

2012-08-17 | オトコとオンナ

年をとるということは、嫌な面もあるけれど、嫌でない面もある。

嫌な面は、体力、気力の衰え、
これは、どんな人間にも否応なく訪れる老化、病気など、古今東西、人類共通の悩み。

嫌ではない面は、若い頃、煩わされていたことから解放されること。
たとえば、男女のあれこれ、濃厚な悩み。
芸術の源、パッションとなる分野で、ピカソやら、だれやら、かれやら、お年をうんと召しても、芸術パワー炸裂なのは、
情熱が、みなぎっているから。
同時に、女性に対する情熱も衰えを知らず、高齢になっても、若い女性と子供を作ったり、お盛ん。

男性と女性は違うのだろうか。
たぶん違うんだろう。
女性は、目をつぶって、はい、おまかせ、なんてことでもいけそうだが、男性は、そうはいかない。
(男性が、はい、おまかせ、というケースもあることは、あるが、レア)
それは、ボールルーム・ダンスの世界も同じ。
男性リードがないと、一歩も進まない。

男性は、しっかり目をあけて、舵を切る。
相手の様子を観察し、導く。
余裕のない男性は、自分本位の踊りをして、相手を失望させる。
これは、じつに、行動パターンが似ている。

女性は、動物的フェロモンむんむんに、豹柄の下着をつけて、頑張ったとしても、
しわくちゃの顔、しわくちゃの身体、
弾力のない、ぽっきーんと折れそうな細い手足、柔軟性のない、筋肉の弱い身体に、豹柄は、似合うかどうか?
それなら、いっそ、ユリとか、菊とか、モノトーンの、仏事・供花系の花のほうが、無難で、しっくりいくかも。
棺おけの中に一緒に入れてもらう花系の柄にしておくと、違和感がないかも。
中には、好きな南国の色花も添えてもらったりして、メリハリもつけて。

男性が、折れそうな、あるいは、動かせないほど太った身体の女性をいたわりつつ、
仏事系の花柄を見ながら、モチベーションが高まるか、どうか。
いたたた・・・と、腰をさすりさすり、足もちゃんと曲がらないのに、かばいながら、どうやって、モチベーションをあげるのか。

自分のそういう姿を想像すると、とても目をあけてなどいられない。
男性に、入院中のリハビリみたいな姿を見られることを想像するだけで、モチベーションは、きゅーんと急下降。

老化に伴う身体の諸事情を考慮すると、
男女の濃厚な悩みは、すーーっと遠のいていくのである。

老化によるモチベーション低下状態なのに、迫られても温度差があり、
ややもすると、せっかく仲良しだった良好な関係が、悪化する。
お茶のみ友だちが、害がなく、罪がなく、ベストなのではないだろうか。

濃厚モーションは、若いあいだにすませておきましょう。
悔いが残らないように。
いつまでも現役でいたい・・・という人は、それなりのパートナーシップを築き、維持する努力が必要。

かくして、同世代の女性(奥さんを含む)に相手にされない男性は、若い女性に走るのだろうか。
若い女性も、高齢の男性を相手に、本気で恋愛するのだろうか。
ファザコンを通り越して、ジジコンの女性でないと、困難を極めるのでは?
では、同世代の女性と・・・・同世代にも、個人差があるので、元気モリモリの女性もいるだろう。


わたしも豹柄は、卒業しているが、
デザインコンセプトは、葬式柄ではなく、キティちゃん柄にしようかしらん・・・
不思議な中性宇宙人という、そんなコンセプトの柄はないだろうか。

世の中には、いろんな男性や、いろんな女性がいて、お年をうんと取られていても、
いろんな問題が、あちこちにはあり、男性はまあ、よく目にしたり耳にしたりするのだが、
ご年配女性のお方のトラブルに、先日、はじめて巻き込まれそうになった。

そのトラブルだが・・・
いくつになっても、女性は、女性・・・灰になるまで、おんな、という、トラブルなのだが・・・
またの機会に。
(といいつつ、ほったらかしにする可能性あり)

 

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


時間よ止まれ

2012-08-16 | 暮らし

忙しい行事の谷間。
なんにもしてないのに、そわそわしている。

蝉がジージー鳴いている。
大きな蝉が2匹、網戸に貼り付いて動かず、ぴくぴくしていた。
このまま、張り付いたまんま、死んでしまったらどうしよう。。。と下娘は、危惧していたが、
知らないうちに、姿を消していた。
やれやれ。

夫婦か、恋人か、兄弟か?
おそらく、夫婦だろう。(夫婦と恋人との違い・差が、ないように思うが)
やっと晴れて大人になったと思ったら、ひと夏で、死んでしまうのか。


背中で、甲子園野球のTV。
誰も見ていないが(誰も回りにいないので)、一応、夏の風物詩。
終戦記念日にまつわる、きなくさい事件が遠くの島で起きたと、ニュースで知り、とてもこころを痛めている。

あいかわらず、蝉はジージー、音量を増している。振動も増しているようだ。
背面から校歌が流れる。作新学園が、勝ったようだ。

姉一家は、この暑い中、我々きょうだいの実家の庭で、一家総出でバーベキューをした。
母一家を含め、4家族プラスアルファ、4世代。
最大動画サイトにその様子がアップされているが、POPな音楽つきで、すてきな編集になっている。
プロは、やっぱり、プロだけのことはある。(同行した、ご一行様、一族のなかに、プロがいる)
動きがある。
躍動感、シズル感(=食べ物の瑞々しい美味しそうな感じ)が伝わってくる。
若い人は、やはりエネルギーがある。
イベントを企画し、ひっぱっていってくれたのも、若い世代。
とても頼もしく映る。

さて・・・

今日は、この暑いのに、片道20分かけて、徒歩でスポーツクラブに行く。
めげそうだ。

一度、決めたらどこまでも。
一旦、サボると、止まると、ずっとサボりっぱなしになりそうで、こわい。
(時としては、サボったりする日も入れないと、
あまり無理をして頑張ると、苦痛になって、長い目で見ると続かないかも・・・。
でも、もう7年目)

あと少ししたら、がんがん、ぎんぎん、お日様が殺人的に容赦なく降り注ぐ中を、
汗だくで、歩いて出なくてはならない。
あの、真夏の午後のいちばん太陽が高い時間の日差しは、日傘ぐらいでは、防ぎ切れそうもない。
熱射病やら、めまいやらして、道の途中で倒れたらどうしよう・・・・
しかも、その先は、スポーツクラブ。
なんか、本末転倒っぽい気もする。

スポーツクラブでは、
プールで倒れる人や、サウナで倒れる人、お風呂で倒れる人・・・
お年寄りがメインメンバーなので、スポーツをしに行ってるんだか、なにをしに行っているんだか。
いずれ、自分も行く道。

「なんにもせずに、暑い家にいるよりは、ずっといい」
と、ご年配のご婦人たちは、仰る。
家では、なにもすることはなくても、外出しても、外出先では夫のご飯の用意が気になり、
追われるように、そそくさと夕方には切り上げられる。
立派なオクサマ方ではないか。
夫たちに、調理を躾けられたら、もっと偉業かも知れない。


なにもすることがない、年配の人々って、羨ましい。
「健康」があるうちは、皆、黄金の時間を大切に使わなくては、絶対に悔いが残る。
健康なのに、好きに時間を使えない人もいる。

しかし、80歳を超えると、とたんに、どんな健康な人も、あっちこっち身体の不調が出てくる。
(もっと早くから、若くから、発症する人もいる)
身体がしんどいと、こころも弱る。
脳が不調の人も、高齢になると、その比率は大きい。
本人も、家族もたいへん。
そうなる前の、黄金の時期は、とても速く過ぎ去る。

高齢の本人も、家族も、時間よ止まれ、の心境だ。

いったん、黄金の時間がストップし、灰色の時間が動き出すと、また、違うステージに移行する。
その先が、灰色から暗黒になるのが、速い人、遅い人、すんなり行く人、えらいことになる人、人それぞれ。
そして、いろんな、すったもんだの展開の後、静かに、この世とお別れする。
この、あの世へ行くまでの展開だけは、予定も計画も立てられない、自分ではコントロールできないものだ。
偉い人も、バカな人も、立派な人も、ダメな人も、自分ではどうにもならない。


わたしの私見だが・・・
人も年を取ると、それまでは、まったく興味も理解も示さなかった自分とは違う世代の人に対して、
今までとは違った思い入れをもって、見るようになる。
自分より上の世代、下の世代に対する想いも深くなる。
歩んできた時間の重みか。

助け、助けられ、互助の精神で、スライドしていけたらいいなあ・・・と
上の世代を見て、そして、下の世代を見て、切にそう思う。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


涙、涙、涙・・・涙で字が読めない

2012-08-15 | 思い出

父が書いた自叙伝もどき、昔の思い出・作文を、先日、実家でもらってきた。
タイトルは、「私の履歴書 ~思い出すままに~」、
父の法要の記念として、義姉が簡易製本してくれたものだ。
実家で古い初代ワープロを処分するにあたって、データをパソコンに取り込めるようで、
パソコンに詳しい義姉が、残っていたデータを復元してくれた。

もう、3ヶ月ほど前にもらっていたのだが、読む気がすぜ、ほったらかしにしていた。
今日は、お盆行事からの解放され、今度は、娘夫婦を迎えるための準備をするために、
部屋の片づけをしようと、そこらあたりの書類から手をつけた。
で、さっそく、その文書を手にしたとたん、そうだ、こんなもの、あったなあ・・と読み始めた。

父が72歳の時に書いたものだった。
父は、文章を書いたり、写真を撮ったりするのが好きだったが、なかなか上手いなあ・・・と感心した。
というか、特出した文才はないかも知れないが、読みやすい、わかりやすい、
文法的誤りがない、誤字脱字がない、客観的事実に誤りがない、忠実な客観的描写が、きちんとされている、
テンポがよい、リズムがある、語彙が豊富、・・・などなど・・・
さすが、生まれつきの文系人間だと、いまさらながら思った。

父は、紆余曲折の後に、理系に進んだが、文転ならいざ知らず、理転は、さぞやキツかったことだろう。
(偶然か、必然か、兄も同じ道を辿ることになった・・・)
学生時代の、文字どおりの死闘というかんじの、苦労だらけの勉強方法も記されていた。
平和な時代に生まれ育った、わたしなんか、比ではない。
学生時代の苦楽の様子や、当時の時代背景などもよくわかる、とても興味深いものだった。


というか、・・・
ちょっと読んでは、涙。
また、読んでは、涙。
ああ、もう無理。読めない。
席を立っては、涙。
うろうろ、動物園のクマみたいに歩きまわって、お茶を飲んで、
そして、また読む。
ティッシュで、なんども、涙と鼻をふき取る。
部屋を移動して、椅子を変えて、また読む。

父は、父の父(祖父)が72歳で亡くなったので、自分がその年齢に達した、72歳の時に、
その「履歴書」を書いた。
それを書いてから、6年後に父は、この世を去った。

履歴書は、昭和21年で終わっていた。
父が生まれてから、幼少時代~学生時代~出征~戦争が終わり、復員して日本に帰ってくる、その当日までだった。
まだまだ続編はあるだろうが、わたしは、今は、この時点では目にする機会に恵まれていない。


いちばん、涙が出て止まらなかったのは、
父が、祖母(=父の母)をお伊勢参りに連れて行ってあげたときの件(くだり)。
父の思いつきで、ほんの軽い気持ちで、大阪の上六の高級ホテルで一泊して、伊勢に祖母を連れて行ったそうだが、
祖母は、たいへん喜んで、いつまでも、何十年たっても、息子(=父)に、伊勢に連れて行ってもらったことを嬉しそうに人に話したそうだ。
父は、さして、たいそうな気持ちもなく、適当なノリでやったことが、
そんなに親孝行になったとは、自分自身でも、驚くような照れるような、複雑な心境だと、当時を振り返っている。

かくいう、わたしも、そういえば、祖母が晩年、もう90歳に近い頃、
「○○(=父)が、上六のホテルに連れて行ってくれて・・・」と、
珍しく無口な祖母が、嬉しそうに語っていたことを思い出した。
当時は、夫婦で旅行などできない時代だったので、息子に連れて行ってもらったことが、よほど嬉しかったのだろう。


下娘も、わたしの後に、これを読んでいだ。
「感想は?」と聞くと
「面白かった。特に、戦争のところが」
とのことだった。
わたしは、読むのに時間がかかったが(うろうろしたし、テッシュで涙や鼻を拭いたり、忙しかったし)、
彼女は、わたしが、このブログ記事を書いている間に、(しかもブログ記事の真ん中あたりで)あっという間に読んでしまった。
速読技術を取得した?
わたしが、とろいだけか?

わたしは、父の「私の履歴書」に、とても深いものを感じた。
この父親の子供でよかった、と、こころから思った。
いつも、わたしは、怒られてばかりで、楽しい思い出よりも、マイナスの記憶のほうが強烈だったが、
(梅ちゃんのお父さんみたいなイメージ)、奥の深さを感じた。
そして、父は、文中でも、祖父や祖母に感謝していた。
自分が、ここまで来られたのは、両親や周りの人のお陰だと記していた。

わたしが、今あるのは、両親のおかげ、両親があるのは、祖父母のおかげ。
順々に、感謝のスパイラルだ。

この想いを大切にして、自然なかたちで、子や孫に伝えたいと思う。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


お盆のストライキ

2012-08-14 | 暮らし

13、14日は、夫の実家で、結婚以来、一度も欠かしたことのない恒例のお盆行事を行い、
いま、さきほど、自分たちの家に帰ってきた。

帰宅後、ほんの少しだけ、あちこちブログを見に回った。
わたしが好きなブログのみなさんは、どうやらお盆など、あまり関係ない方々が多いようだ。

ひとそれぞれ、背景も違うし、生活環境も違うんだ・・・って、あたりまえのことを今さらながら思った。


日本には、お盆休みというものがあって、キリスト教の人にとっては、やったー、ラッキーとなるのかも知れない。
お盆は、日本人には、切っても切り離せない、宗教に起因する行事である。
盆と正月というと、1年のうちの大きな区切り、ハレとケの比喩に使われたりする。

ちなみに、わたしの車は、盆と正月に、突然、いきなり、ストライキを起こす。
去年の年末、大晦日に、夫の実家で突然、動かなくなり、でも、あくる朝、元旦はご機嫌を直して、動き出した。
びくっとさせられた。

そして、また今年の、このお盆。
お盆のため、夫の実家に行く前日、12日に、いきなり急に動かなくなり、車屋さんに連絡すると、
お盆休みなので、修理はお盆明けになるそうな。

お盆のお務めに、夫の実家に行けないではないか。
とりあえずは、行きは夫の車に乗せて行ってもらって、帰りは、ちょっと奥の手を使って(営業車を臨時使用して)、
どうにか、自分たちの家に帰ってきた。

義母に、盆と正月にストライキを起こす、わたしの車のことを話すと、
「そういう因縁なんやねえ」だかなんだか忘れたが、なんらかのコメントをもらった。
(けっこう、面白いコメントだったのに、忘れたってとこが、情けない・・・)

うちのテレビは、いまどき、どこの家にも置いてないような、超旧式の、薄型と対極の、どっかーんとした年代ものなのだが、
予約もしていないのに、定時に突然、消えたり、ついたりする。
しかも、いつもテレビショッピングの番組に勝手に変わる。
映りが悪く、いよいよ、いざ、新しいものに変えようとすると、今までとは取って代わったように、急にキレイに映ったり、
買い替えを思いとどまらせようとする動きを見せる。

どうも、我が家の電化製品は、女あるじに、似たところがあるようだ。
日ごろは手抜きし、いざ、クビになりそうになると、急に、とってつけたように、働き出す。
芸のない命乞いであると言えるが、魂胆が見え見えで、よくない。
急場をしのいだら、また、いつものぐうたらになり、映りが悪くなったりする。
そうやって、だましだまし、今日に至っている。

冷蔵庫もそうだ。
この暑いのに、温度表示のサインが、消えそうに点滅し、悪い予感がしていると、
中が冷えずに壊れかかったり、かと思うと、息を吹き返したり、気ままな冷蔵庫だが、
冷凍庫には冷凍品をどっと保存しているので、気が休まらない。
関電の計画停電より、ずっと深刻で、たちが悪い。

ワインクーラーも同じだ。
もう、だめだ、捨てよう、ここまで長期に動かないとなると、意味がない、と、重い腰を上げようとすると、
いきなり、グイィーーンンと、精一杯の音をたてて、動き出す。
なんだ、あのワインクーラーは?
わたしと、そっくりではないか。

どれも、これも、わたしみたいな動きをする、我が家の家電や車たち。
長年、いっしょに暮らしていて、女あるじの悪い病気が移ったようで、本人としては、非常に、気が悪い。
あてつけか?
笑うに笑えない。

ばーんと、全部、新しいものに買い換えようか?
そういう英断もできず、だまし、だまされ、ポンコツ機器も、そして、わたしも、今日まで、生きながらえている。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


大人の会話

2012-08-13 | わたし

人には、いろんな意見、考え、感性がある。

どれが正しくて、どれが間違っているかということは、話題によって様々だろうけれど、
そのために、世界のどこかで、戦争が起こったりもする。

自分の意見が通らないからといって、相手を否定するのは、ちょっと気が短い。
自分の意見は、自分の意見、相手の意見は、相手の意見。
お互いの意見である。
その意見が、正反対だった場合は、どうする?

ふたりで、なにかモノゴトを決めて進める場合は、話し合って、妥協し合って、納得し合って、手探りで中間をとる。

たとえば、その内容が、まったく、個人の趣味に委ねるようなものだった場合は・・・?

ミカンが好きな人と、りんごが好きな人。
ミカンが絶対に美味しい、りんごなんか、一口も食べたくない。
かたや、りんごは、大好き。ミカンは嫌い。
では、この両者が論争をしたとする。
お互い、ミカンと、りんごの長所、短所をあげ、理解を深め合おうと努力する。

でも、いくら、口に泡をとばして、延々、朝まで大ディスカッションをしても
片方は、やっぱりミカンが好き。片方は、やっぱりりんごが好き。

そこで、決裂する。
なにさ、りんごなんて、最低。
ふん、ミカンこそ、最低中の最低。

自分の好きなものを充分、愛しみ味わえばいいと思うのだが、それ以外をけなす必要はないと思う。

大人なんだから、大人の会話テクニックで、
どんなに自分がミカンが嫌いで、りんごが好きであっても、相手は、ミカンが好きだって言ってるんだから、
「ミカンのいったい、どこが美味しいの? 気が知れない。
それより、りんごが嫌いなんて、ありえない感覚ね」なんて、口が裂けても言ってはいけない。
押し付けは、よくない。

さらっと、「そうですよね、ミカンはおいしいですよね」と言おう。
「ミカンもおいしいと感じる人には、おいしいですよね」と、へんに理屈っぽい注釈をつけてはいけない。
「わたしは、キライですけれど」の一言は、余計だ。
「わたしは、食べませんけれど」の一言も、余計か?

よくわからなくなってきた。

ミカン派は、りんごに距離を置き、りんご派は、ミカンに距離を置けばいいのか。
あるいは、ミカン派は、りんごを笑い飛ばし、りんご派は、ミカンを笑いとばす?
(フルーツを笑い飛ばすって、どうやるんだろう? この行為はしたことがないし、仕方がわからない)

ちなみに、わたしは、ミカンも、りんごもキライではないが、チョコは好きで、ケーキも、おかきも、好きで、
カレーも、飲茶も、フランス料理も、おにぎりも、ヤキソバも、精進料理も、懐石料理も、お好み焼きも好きだ。

めんどくさくなってくると、
ミカンがあっても、なくてもよくて、りんごがあっても、なくてもよくて、
ミカンはミカンでなくてもよくて、りんごはりんごでなくてもよくて、
ミカンもりんごも、どうでもよくて、
好きなんだか、嫌いなんだかも、どうでもよくて、・・・
いっぱいもらうと、食べ切れなくて、・・・
ミックスジュースにすると美味しくて、けっこう好きで、・・・

ますます、わけがわからなくなってきた。


ぎゅっと簡潔に、考えをまとめるのは、じつにヘタ、不得意で、
考えれば考えるほど、ぴりっと引き締まったピンポイントの結論とは逆のほうに、どんどん放射線状に拡がっていく。
問題点を解決できないまま、
さらっと大人の会話ができるようになるまでには、まだまだ修行の身は続きそうだ。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


みなさん、お先に失礼します

2012-08-12 | 日々のこと

昨日は、中学の同窓会だった。
卒業以来、もう何度も3年毎ぐらいに開催されているが、わたしは、おそらく、パーフェクト出席だろう。
同じ日に、高校の同窓会とも重なっていたが、躊躇なく、中学を選んだ。

今回は、あまりノリがなく、出欠はがきを出さずにほっていたら、お世話係のMちゃんから、電話がかかってきた。
「もしもし、Mです」
そう第一声を聞いたとたん、
「行きます。参加します」と、いきなり言って、Mちゃんを苦笑させてしまった。

誰にも、好みはあるだろう。
ガールズトーク満載の、わーわーきゃーやー、女学生(死語的扱い)当時のノリで、
○ちゃんやら、△ちゃんやら、□ちゃんと、涙を流しながら、きゃっきゃきゃっきゃと、笑い転げる、
なんていうのは、かなしいかな、わたしの趣味ではなく・・・というか、もっと、かなしいのは、そんなふうに、過ごさなかった。

箸が転んでも可笑しい思春期の女の子時代が、おそらくなかったのだろう・・・(泣)
強いて言えば、涙を流して笑っている女の子たちを見て、あんなに単純で、なんにも考えなくて、羨ましかった。
(というか、そういう女子も、あまりいなかったように思う・・・わあ、暗い学校だ・・・)

かわいい、よく笑う、明るい女の子たちは、転校していった。
残るのは、暗い人間だけ・・・。
(事実に反する誇張表現アリ。「目に入れても痛くない」、というのと似ている)
これは、ちょっと、わたしの心象風景に似ていて、実際の学園生活とは違うので、小説ブログのほうがいのかも知れないが。

(現に昨夜、話した男子Y君は、マドンナOちゃんのことを、
屈託なく笑う、その天使のような笑顔に、ころっと、まいった、と言っていた)

ま、それはそうと。
中学のほうが好きなのは、個性的な人間が多いからだ。
中学時代、ぱっとしない、おチビでも、社会人になって会ってみると、見違えるほど、さなぎが蝶になっている。
これは、多く、男子に言える。
話し方、態度、話の内容も、とてもしっかりしているし、内容そのものが興味深い。(チビ当時と比べると、当たり前か)

女子は、あまり変わり映えしないので、面白みに欠ける。
そして、わたしが、会ってみたいと思う、中学当時、さなぎだった女子は、同窓会にまったく顔を見せない。
さなぎのまんま、くすぶっているのだろうか。
女子は、花、開かないのだろうか。

お金持ちと結婚して・・・なんていう子もいるのかも知れないが、そういうニオイは、誰からも漂ってこない。
暗い顔をして、貧乏生活かというと、名のあるホテルの宴会場は、会費もお高いので、そんな人は、出席しない。

お金のニオイ、ぷんぷんの人はいない。
お金ばかりが目に付く、お金持ちのおぼっちゃん、おじょうちゃんの学校とは、カラーが違う。
わたしは、そこが、じつは、好きなところだ。
(ちなみに、高校は、素朴・牧歌的・善良な人の集まり、と、わたしには映った)

男子には、成功者のニオイぷんぷんの人は、いる。
わたしは、なぜか、成功者のニオイは、とても好きである。
(ただし、成り上がりではなく。こう書くと、嫌なヤツだと思われること、間違いなしだが)

彼は、さらっと、ありえないほど、住む世界の違う話をする。
聞いていて面白いのだが、一通り聞くと、あまりの共通点のなさに、つぎの話の糸口がつかめない。
どうしよう・・・と悩む間もなく、彼は、別のテーブルにさっさと移っている。
彼は、パーティでの身のこなし方を身につけているとも言える。

そうだろうなあ・・・わたしと話していて、花が咲くわけないわなあ。
彼と過ごした小学校(2年生から)~中学卒業までの8年間は、人間としての基礎となる、大事な期間ではあるけれど、
その後の人生が違いすぎる。
(それ以前に、持って生まれた能力=おもに脳ミソに開きが、ありすぎる)

まあ、・・・それは、ともかく
遠くまで延々と時間をかけ、高い会費を払い、出席したわけだが、
みんなの顔を見ただけであって、ちゃんと話した人は、ほんの数人。
話したことは話したが、
「全然かわらないね」「元気そうやね」というような、短い言葉の投げかけのみの人は、話したうちに入れようか入れまいか。
そんな短い会話なら、女子とは、ほとんどの人と話したといえる。
あ、よく考えてみると、短いのだったら、男子ともけっこう、話した。

ということは・・・まあまあ皆さんと、お話し、したっていうことだ。

当時、初の教鞭をとったばかりの、8歳年上の、保健体育の美人先生に、
「あなた、若いって言われるでしょ。年より、ぐっと若く見えるわよ」
なんて、不思議なことを言われたが、「先生こそ、お若くて、同級生と見間違えるぐらいです」と応戦。
おんな同士は、いくつになっても、お世辞を言い合うのか?

3年ごとに顔を出している同窓会。
今年こそは、もう、出席しない、と思っていたのだが、またもや、流れで行ってしまった。
飛び切り楽しいわけでもなく、サプライズがあったわけでもなく、(初参加の人は、ひとりいたが、あまり印象に残らず)、
いつもと同じように、淡々と何事もなく、無事に今回もみんな集まったね、というかんじだ。
(東京方面からの参加者も多く、雨で、交通機関に影響が出て、立ち往生したらしいが)

毎回、参加しすぎているから、少々のことでは驚かない。
欠席者のはがきが、ボードに貼られていたが、一言コメント欄に書かれているメッセージにも興味なし。
人に話したい、伝えたい、あふれ出る何かも、なし。自分は、今、無風「凪」状態なのか。


わたしは、(電車で帰れる程度の)遠方なので、帰りの終電にも間に合うように、
地元の皆が、(団体で)ホテルの階上ラウンジで遅くまで飲んでいるのをしりめに、お先に失礼した。
以前なら、先に帰るのはとても惜しい、もっと、みんなと飲んでいたい、もっと特定の興味のある人と話したい、と、
後ろ髪を引かれていた。
だが、お酒に飲まれるのでもなく、人に飲まれるのでもなく、
こんな年齢になると、ほろ酔いパプニグなどまったく期待せず、自分スタイルが確立されているようで、
そんな自分を発見して、これまた安心した。

落ち着いてきたというか、年がいったのだろう・・・
(というか、お盆行事をはじめとする、どかんと行事が控えていて、気もそぞろ、なのかも知れない)

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 

 


体内時計、故障。

2012-08-10 | 日々のこと

人さまのブログをはじめ、他人の様子を見て、取り入れるべき美点は、参考にし、嫌だと思う点は反面教師にする。
しかしながら、わたしは、基本的に、あまり、感受性が強くない。

だが、ドラマで、人が死ぬ場面が静かに流れたりすると、わたしは、勝手に涙が零れ落ちる脳メカニズムにはなっている。
これは、よくわからないくせに、ベルを鳴らすとヨダレを流す犬とほぼ同じだ。

脳の導線が、人より細いのか、途中で切れているのか、つまっているのか、
なんだかよくわからないが、反応が遅い。

成人して、うんと時間が経ち、わたしが充分大人になってから、
父が、日本人の男性平均寿命の年齢で、この世を去った。
これは、号泣する要素ではない、と、わたしは思っている。

よかったね。おとうさん。
まわりの手をわずらわせることもなく、短期間に、あっという間に、あの世に行って。
世の中、あれから、リーマンショックやらなんやらで、株価は暴落、土地も暴落。
そういうこと、まったく知らずに、あっちの世界に行った。

父は、波乱万丈の生き方をした。
ごくろうさま、さぞや、たいへんだったでしょうね、と、そのご褒美なのだろうか、
神様は、じつに静かに、この世からあの世へと、すんなり父を移してくれた。

・・・・・

この、父の話題を含め、急にすごくノッてきた。
(もうすぐ、お盆だから?)
だが、ノルのが遅すぎた。
もう、制限時間が目に間に迫る。

またまた、中途半端で、強制終了します。
もっと、ちゃんと書き上げてから、アップするのが、文章を大切にする人の常識でしょう?と、
お叱りの声なき声が、聞こえてきそうだ。(幻覚、幻聴、耳鳴りか?)

一日の短い時間。
そもそも書くことに集中せず、あっちこっちに気が分散しすぎ。
すべき用事をかかえ、それも、ほったらかして、今日も、どれも時間切れ、遅刻となった。

ああ。

そんな日もあります。・・・と、毎日、言っている。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


汗をかくポイントが、ズレている

2012-08-09 | わたし

梅ちゃん先生、
いくらなんでも、若い二人の新婚部屋に、夜、思春期の男子をいっしょに寝かせるのは、いかがなるものかと。
ウケ狙いか?
押入れに入れても、だめだ。

ストーリー・テラー。
面白いだろうけれど、不自然は、よくない。


軟派と硬派。
わたしは、どちらかといえば、軟派だ。
人は年齢を重ねると、硬派だった人も、人生経験を積んで、味のある軟派になっていたり、
軟派だった人も、それなりに、真面目になっていたり。
基本のかたちは、あっても、その後の肉付けによって変わってくるようだ。

わたしは、どっちも好きだ。
だが、どっちか片方だけでなく、両方あるのが望ましい。
ほどよいブレンド、ミックス。

美しいことばかり言っていては、世の中、生きていけないし、
フマジメなことばっかりやっていても、世の中、生きていけない。
清濁併せ持ち、でも、それでいて、基本は清らかなのが理想だが、そうは、うまく行かない。
清と濁の、配分バランスが微妙だ。


話は、変わるが・・・

自分を認めてくれなかったり、関心をもってくれない人には、自分も好意を抱かない。
逆に自分と似たような人、相性があうもの同士は、お互いが好意を抱く。
性格がどう、とか、能力がどう、とか、行いがどう、とか、
自分と似ているんだから、説明をいちいち聞かなくても相手のことが、手っ取り早く理解しやすい。

自分を認めてくれる人に自分が好意を持つ、ということは、人に見返りを期待するんだろう。
つまり、どこのどんな人よりも、だれよりも自分のことが好きなんだろう。

わたしも自分のことを自己肯定しているようらしいが、
人に言われて気が付いた。

自己肯定をもう一歩、強く進むと、「自慢」になる。

自慢したい気持ちは、うずうずあったとしても、表面にはっきりくっきり現すのは、
よほど、どこの誰が見ても認められる、オリンピック級のことでもないと、かっこわるいと、わたしは思っている。
自慢というよりは、どんなにサエない、つまらない、くだらない、レベルの低いことであっても、
自分の核となる、一種の、人としての誇みたいなもの、アイデンティティ、
これなら、表明しても、鼻持ちならないことはないのかも知れない。

世の中には、他人に自慢をしている人が多くいる。
それは、自己肯定なのだが、他者が見ても非常にわかりやすい。
こんなレベルでも自慢してもいいんだ~・・・なんて、もし、わたしが思ったとしたら、
とてつもなく、わたしは嫌なヤツだ。
自慢内容は、内容やレベルを他者と客観的に比べるものではない。

たとえば、子供自慢は、聞いていて嫌なかんじがするけれど、孫自慢は、ほのぼのする。
鼻が上向いていて、お世辞にもカワイイと言おうとすると、口が、もたもた、もたつきそうな
そんな、どんなに客観的に見ても、容姿、外見が、かわいくない孫でも、ジジババにとっては、かわいい。
見目かたちではなく、存在そのものが、かわいい。

「こんな手芸、してるの」
楽しそうに、いきいきと、その作品を見せてくださる。
その作品が、センスがおわってようが、およそ使い道がなかろうが、どこがいいのか、さっぱりわからなかろうが、
ご本人が、楽しければ、それでいい。
(わたしの小説も、そうだろう・・・)


わたしは、かなり嫌なヤツだ。
自覚している。
だからこそ、それが、外部に漏れないよう、他者にわからないよう、ひた隠しにしている。
どう嫌なヤツかというと・・・
(ひた隠しにすることを努力しているくせに、自分からカミングアウトするのは、矛盾している)

わたしは、理想が高い。
現実や、自分自身は、理想にはまるで手が届かないくせに。
これが、自分の最も嫌な性格である。
あと何十年あるか知らないが、残りの人生をかけて、この性格を修復、なおしていきたい。
(これまでのウン十年、半世紀が、、無理だったのに、これから、果たして出来るのか?)

理想には絶対に手が届かないということを知っているから、現実は、イマイチでもさして不満はない。

多くの良いもの、優れたものを知っている。
これは、知っているだけであって、決して身についていないところが、わたしの欠点だ。
なので、自分はたいしたことがないという、動かせない事実があるにもかかわらず、
世の中のいろんなものを、自分が見聞きした良いものと比べてしまう。
そして、それを誇りに思ったり、自慢している人に対して、「世の中には、もっと上には上があるよ」と思ってしまう。
そう思う自分、その上から目線、それが許せない。

「ほっといてくれ。人がせっかく喜んでるのに。満足しているのに。水をさすな」
そう思われるだろう。
なので、そういう人には、ぜったいに、わたしの胸のうちを悟られないようにしている。
というか、世の中のだれ一人にも、胸のうちは、ださない。
(アタマから足の先まで、上から目線根性が詰まっている。
タイヤキでいえば、アタマからしっぽまで、あんこが詰まっている)

人の口に戸は立てられない、というが、
人のこころにも、戸も、映倫カットも、検閲も、できない。
なので、こころが、勝手に、なんの妨げもなく、すいすい、いろんなことを感じ、思ってしまう。
これは、しかし、罪にはならないと思う。
が、重荷に感じる人は、こころを悔い改め信仰に救いを求めるとか、熱心にボランテア活動をするとか、
身内、あるいは、人のために、身を尽くすとか、
いろいろやると、よいだろう。

で、わたしは、なにもしていない。
無意味に、無駄に、汗をかきながら(立秋とはいえ、まだ暑いので)、
黙々とパソコンのキーボードにパチパチと入力しているだけだ。

でも、自分の本心から、すばらしい、と思うこともたくさんある。
その場合は、共鳴、賛同の意を声に出して表現する場合もある。
問題は、素晴らしくないと感じた場合だ。
しかも、ご本人が自慢している。
その場合は、わたしは、「そうですかぁ~」と、ふつうの顔で、平然と、なにごともなかったかのようにしている。
それに対して良心の呵責を感じている。

・・・・・
なあんだ、そういうことか。
文字にしてみると、世の中にはよくある、けっこう、ふつのことかも知れない。

つまらないことに、文字数を割いてしまった。
入力に専念するために、NHKテレビのオリンピックの中継を消してまで、書くような内容か?

まあ、そんな日もある。

 

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


サマータイム メモリー

2012-08-08 | 思い出

立秋とはいえ、まだまだ厳しい暑さが続く。
が・・・、さすがに、立秋。
今朝は、ひんやり涼しく、嬉しくなった。
窓を閉めなくてはいけないぐらい。

この季節、いつも思い出す。
20歳の時の夏休みに、イギリスに滞在した。
朝、ひんやりした空気のなか、毎日、ホームステイ家の近くのバス停から研修先に向かった。
まだ気温が上がらない朝、肌に気持ちよさを感じながら、家からバス停まで歩く。
朝の薄い太陽の光が、バス停に注し込み、その傾斜した、やわらかい光の先には、人々の顔があった。
いつも同じ時間、同じ顔ぶれが、バス停留所に集まっていた。

ホームステイ家の朝ごはんは、薄切りトーストと、インスタントコーヒー。
ホストファミリーのママが、毎日、サンドイッチのお弁当を作って持たせてくれた。
もうひとり、ステイしている学生がいた。
彼女は、ギリシャ人。
お父さんは、バンク・マンだと言っていた。
ギリシャ人といっても、今ならEUでお騒がせのギリシャだが、当時は、わたしのギリシャのイメージは漠然としていた。
彼女は、色の浅黒い、縮れ毛の黒髪、太目の女の子。
その友だちは、いかにもギリシャ人という、きりっとした顔立ち(わたしの勝手にイメージするところの)だったが、背が低かった。
彼らの友達たちは、ありえないぐらいの美男美女だった。

背は高く、スタイルは申し分なく、
第一、顔が・・・顔が、その場所で同じ空気を吸っているとは思えないぐらい、絵に描いたように美しかった。
といっても、わたしの人生経験や見識、知識は、あくまでも浅く、リアルな引き出しは皆無だったので、
漫画やテレビ、雑誌で、ちらりと見たことがある程度だったので、どう美しいのかも、まともに表現できない。

彼らは、わたしの存在など、まるで、ないかのように、(勝手に卑屈になって、自分でそう思っていただけ?)
伸びやかに、明るく、楽しげに、その存在だけで、十分、光り輝いていた。
わたしは、(若者にありがちな傾向そのままなのであるが)、見た目で人を判断していた。

彼らは、10代だが、タバコをぽいぽい路上に捨てていた。
わたしは、あんな今まで見たこともないような美しい男女、特に、若い女の子が、タバコを吸うということ、
しかも、スパスパ、スパスパ。
ヘビー・スモーカーばりに、吸っては、ぽい、吸っては、ぽい、に、映画かなにかを見るような思いで彼らを見ていた。

まあ、それはそれで、いいとしよう。
わたしの関わることになった、担当の先生は、20代前半のイギリス人・医大生だった。
背はすらりと高いが、イケメンではなかった。
が、インテリではあった。
よく、青臭い、討論にもならないようなデスカッションもどきをしたように記憶する。

こういうと、あたかも、わたしが、英語ぺらぺらの才媛と勘違いされそうだが、
実体は、まったくそんなことはなく(声を大にして言える)、
同じプログラムに参加していたメンバーの中には、
アグネス・チャン風ファッションの(時代の色、出てますね)中学生の女の子や、
石原裕次郎のようなファッションの色白でぽてっとした、ちっこい中学生の男の子なども参加していて、
わけのわからない、国籍不明、不思議な宇宙人団体だったかも知れない。

この話は、書くと長くなる。
いままで、あちこちで、手を変え品を変え、書いてきたわけではなく、じつのところ、詳しく書いたことはない。
ほんの1~2行程度で、補足説明的に、書き添えたことはあっても、中身に触れたことはなかった。
こういう、昔の出来事を振り返ったり、書き記そうとするのは、充分、年をとった、ということだ。
しかし、まだまだ、その段階に到達していないかも知れない。
じっくり、ゆっくりは、またの機会にすることにしよう。
(そう言いつつ、ほったらかしの可能性、大)


手持ち時間が、いっぱいになってきた。
ラジオ講座・フランス語BGMの時間が近づいてきた。
この、時間制限がある限り、優雅に昔話を書いているゆとりは、ないように思う。
というか、小説、一昨昨日に更新アップできなかったし、そっちのほうをやらないと・・・
ああ、わたしは、無謀なことに手を出してしまったものだ。(後悔、半分・・・)

今朝も時間切れ。
そろそろ気温も上がり始めたようだ。
さて、ウオーミングアップも無事、終了。
1日の、スタートだ。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ